記事内ではイチロー氏、岩瀬氏、掛布氏のスピーチを【ノーカット動画】でお伝えしています。(データ放送ではご覧になれません)
野球殿堂に新たに4人 イチロー氏 岩瀬氏 掛布氏など
新たに野球殿堂入りしたのは、競技者表彰と特別表彰のあわせて4人で16日、東京 文京区の野球殿堂博物館で行われた式典で発表されました。
競技者表彰のうち、引退から5年以上が経過し、現役時代の功績が大きかった選手が対象となる「プレーヤー表彰」では
▽日米で数々の偉業を成し遂げたイチロー氏と
▽中日の抑えとして長年活躍した岩瀬氏が選ばれました。
このうちイチロー氏は、プロ野球・オリックスで1994年にプロ野球史上初のシーズン200本安打を達成し、この年から7年連続で首位打者に輝きました。
その後、大リーグ・マリナーズに移籍し、デビューした2001年に新人王とMVP=最優秀選手を同時に受賞したほか、10年連続でシーズン200本安打をマークし2004年には、いまも破られていない262本のシーズン最多安打記録を打ち立てました。
大リーグ通算3089安打、日米通算では4367安打を積み重ねアメリカ野球殿堂入りの候補者にも選ばれています。
【ノーカット動画】イチロー氏「日本野球の力になりたい」
イチロー氏は史上7人目となる候補者入りして1年目での殿堂入りを果たし式典でのスピーチで「日本で9年、アメリカで19年、選手としてプロ野球選手生活を過ごしたにも関わらず、日本の野球殿堂へ迎えていただいたことに大変感謝申し上げます。動けなくなるまで野球と携わって、なんとか日本野球の力になりたいと考えています」と話しました。
(動画は5分33秒。データ放送では、ご覧になれません)
岩瀬氏は、リリーフとして中日ひと筋で20年にわたってチームを支え▽最多セーブ5回▽最優秀中継ぎに3回輝くなど数々のタイトルを獲得しました。
通算1002試合登板と通算セーブの「407」は、いまもプロ野球記録となっています。
【ノーカット動画】岩瀬氏スピーチ「人に支えられて」
岩瀬氏は「うれしいと同時に本当にいいのかなという気持ちです。僕は本当に人に支えられてここまで来たと感じています。お世話になった方に感謝するとともに、この報告で恩返しとできれば」と話しました。
(動画は3分16秒。データ放送ではご覧になれません)
また、プロ野球の指導者経験がある人や、引退から21年以上経過した人が対象の「エキスパート表彰」には、阪神の主軸としてホームラン王を3回獲得し「ミスタータイガース」の愛称で親しまれる掛布氏が選ばれました。
【ノーカット動画】掛布氏スピーチ「新しい一歩を」
掛布氏は「あしたは阪神・淡路大震災から30年、能登半島地震から1年たちますが、まだ苦しんでいる人が大勢いる中で、この殿堂入りは子どもたちを、街を笑顔にするような活動をもっとやっていけというメッセージと感じます。その気持ちを大切に新しい第1歩を踏み出していきたい」と話しました。
(動画は1分44秒。データ放送ではご覧になれません)
一方、幅広く野球の発展に貢献した人をたたえる特別表彰には、プロ野球の審判員として歴代2位となる3775試合に出場するなど審判技術向上に貢献した富澤宏哉氏が選ばれました。
【ほぼ全文】イチロー氏 殿堂入りスピーチ
イチロー氏は黒いスーツにネクタイ姿で殿堂入りの表彰を行う「通知式」に出席し、スピーチを行いました。イチロー氏は書面を用意していたものの、スピーチの間は同じく殿堂入りした2人や、ゆかりのある人として出席した王貞治さんなど式典の出席者たちに視線を送りながら時折ユーモアを交えて喜びを語りました。
最後に17日で阪神・淡路大震災から30年になるのを前にオリックス時代に過ごした神戸の街への思いを語りました。
以下、スピーチのほぼ全文です。
皆さんこんにちは。イチローです。この度は殿堂へ選出していただきありがとうございます。私は、1991年にオリックス・ブルーウェーブからドラフト4位で指名していただき、日本で9年、アメリカで19年、選手としてプロ野球選手生活を過ごしました。
にも関わらず、日本の野球殿堂へ迎えていただいたことを大変感謝申し上げます。2019年の3月に東京ドーム、まさしくこの場所で引退の試合を終えてから5年間、あっという間でした。ファンの方々がつくってくれたあの瞬間を支えに、引退後も野球に携わって、ここまで野球に対して、プロ野球に対して未練があったり、そういう後ろ向きな気持ちなく、ここまで過ごして来てこられました。
この大好きな野球を長く続けてこられた中で、きょうお越しの王監督、原監督。王監督とはもちろん、第1回WBCで一緒に同じユニフォームも着て初めて戦ったわけですし、原監督とはあんまりいい話はないですね、監督(笑)。でも、こうしてきょう再会できたこと、本当喜んでいます。
掛布さんとも大変ご無沙汰で、お話を伺えたのもとてもよかったです。森さんとは、僕が今ピッチャーをやっていることもあって、先ほどマメの話をお伺いして、とても興味深いお話を伺いました。
岩瀬選手。選手じゃないね。岩瀬とはね、同郷の名古屋、愛知県出身でトレーニングとか同じジムに通っていて、共通点もたくさんあったので、こうしてまた再会できて、とても喜んでいます。
今はですね、未来を担う子供たち、主に高校生ですけども、彼らとの出会いを通じて、それが僕の大いなる目標となっていて、さらにモチベーションにもなっているという状況です。様々な要因から今の野球が変わっていってるわけですけれども、せめてやっぱり子供たちが向き合う野球は純粋なものであってほしいと願っています。
時代でやっぱり変わっていくものはあります。でも、やっぱり変えてはいけないものというものもあると思うんですね。そこを僕は強く意識して、これから子どもたちと接していきたいと思っています。
最後になりますが、あすで阪神・淡路大震災から30年がたちます。当時、僕は21歳ですね。オリックスの寮で、あの時は休んで眠っていたんですけれども、初めて命の危機というか、自分はこれで死んじゃうのかもしれない。寮があったエリアは、そんなに大きな被害はなかったわけですけども、それでも初めて命について考えさせられた時間でした。
こういうことっていうのは、なかなか経験していない人たちに伝えていくということは大変難しいことなわけですけれども、いち被災者として経験した思いというのを経験しなかった子どもたちに、これも伝えていけたらなというふうに思っています。
そして、神戸は僕にとって今も特別な場所で、オフにはたまに神戸に寄ることもあるんですけれども、これからも自分なりに進んでいく姿が、誰かのきっかけになったり、支えになったり、そんなふうになれたらいいなという風に思っています。
これからもいつかわからないです、動けなくなるまで野球と携わって、なんとかですね、日本野球の力になりたいと考えています。本日はありがとうございました。
イチロー氏 史上初の満票選出はならず
イチロー氏は今回、殿堂入りに必要な75%を大きく超える92.6%の票を獲得しましたが、史上初となる満票での選出はなりませんでした。野球殿堂博物館によりますと、イチロー氏が対象となった競技者表彰のなかのプレーヤー表彰は、野球報道に関して15年以上の経験を持つ記者やアナウンサーなどが「委員」として投票用紙に記入し、投票します。今回、委員353人のうち有効投票数は349票で、イチロー氏は、このうち323票を集め、得票率は歴代6位となる92.6%でした。
これまでの競技者表彰を遡ると、表彰が始まった1960年にプロ野球で最初の300勝投手となったロシア生まれのヴィクトル・スタルヒン氏が、歴代最高となる97.3%の得票率で選出されています。
歴代競技者表彰 得票率(上位6人)
▽1位:ヴィクトル・スタルヒン氏 97.3%(1960年)
▽2位:三原脩氏 96.2%(1983年)
▽3位:稲尾和久氏 94.8%(1993年)
▽4位:若松勉氏 94.7%(2009年)
▽5位:王貞治氏 93.2%(1994年)
▽6位:イチロー氏 92.6%(2025年)
イチロー氏 候補1年目での殿堂入りは史上7人目
イチロー氏は候補者となって1年目で殿堂入りしましたが、これは史上7人目となります。これまで、候補者になって1年目で殿堂入りしたのは
▽競技者表彰が始まって1回目の1960年に殿堂入りしたスタルヒン氏。
▽「一本足打法」でプロ野球史上最多の868本のホームランを打ち、1994年に殿堂入りした王貞治氏。
▽「トルネード投法」で日米で活躍し、大リーグに挑戦する日本選手の先駆けとなり、2014年に殿堂入りした野茂英雄氏。
▽現役時代、西武など3球団であわせて11回の日本一に貢献して「優勝請負人」と呼ばれ、2016年に殿堂入りした工藤公康氏。
▽巨人や大リーグ・ヤンキースなどで活躍し、2018年に当時、史上最年少の43歳で殿堂入りした松井秀喜氏。
▽1492試合連続フルイニング出場の歴代最多記録を持ち2018年に殿堂入りした金本知憲氏です。
また、岩瀬氏は308票を獲得して88.3%の得票率で殿堂入りを果たしました。掛布氏は去年は必要な得票数にわずか2票届かずに殿堂入りを逃していましたが、今回は当選に必要な109票を2票上回る111票を獲得し76.6%の得票率で殿堂入りしました。
イチロー氏 今後は日米殿堂入りに注目
イチロー氏は現地時間の今月21日に発表されるアメリカ野球殿堂入りも確実視されています。選ばれればが集まります。
大リーグで大きな功績を残した選手などが対象となるアメリカ野球殿堂入りは、選手では大リーグで10年以上プレーし、引退から5年たつと候補者としての資格が得られることになっていて、全米野球記者協会に10年以上在籍する記者による投票で75%以上の票を得た候補者が選ばれます。
イチロー氏は、大リーグでデビューした2001年から10年連続で200本以上のヒットを打ち、2004年には262本のシーズン最多安打をマークするなど数々の記録を塗りかえ、大リーグ通算3089本のヒットを打ちました。
イチロー氏は引退から5年が経過し、今回、新たな候補者に名を連ねていますが、こうした実績からアメリカメディアは「殿堂入りは確実だ」と伝えていて、日本選手として史上初めて選ばれるか注目されています。
日本選手では2014年に野茂英雄さん、2018年に松井秀喜さんが候補者入りしましたが、いずれも殿堂入りは逃していました。アメリカの野球殿堂入りは、今月21日に発表されます。
◇イチロー氏 経歴◇
を打ち立ててきたイチロー氏は51歳。愛知県の愛工大名電高校からドラフト4位で指名され、1992年にプロ野球のオリックスに入団しました。
3年目の1994年に当時の仰木彬監督の発案で登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変えて一気にブレークし、右足を大きく振り上げる独特の振り子打法も大きく注目を集め、プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成し、この年から7年連続で首位打者に輝きました。
2000年のオフにはポスティングシステムを使って大リーグ、マリナーズに移籍、デビューした2001年からレギュラーとして活躍し、ライトからの送球が「レーザービーム」と称されるほどの強肩、内野安打や盗塁を稼ぐ俊足に加え大リーグでもヒットを量産する巧みなバットコントロールで1年目にいきなり首位打者と盗塁王に輝くとともに当時、大リーグ史上2人目となる新人王とMVP=最優秀選手の同時受賞を果たしました。
この年から10年連続でシーズン200本安打をマークし、2004年には今も破られていない262本のシーズン最多安打記録を打ち立てて2回目の首位打者になりました。日本選手では1995年にドジャースに入団した野茂英雄さんが大リーグ挑戦の先駆けとなりましたが、当初はピッチャーの挑戦が多かった中、野手としても大リーグのトップ選手として活躍できることを証明しました。
日本代表としての活躍も多くのファンの記憶に残っています。2006年の第1回WBC=ワールド・ベースボール・クラシックでは王貞治監督のもと、日本代表の中心選手として初優勝の原動力となりました。
さらに、2009年の第2回大会では延長にもつれる接戦となった韓国との決勝で、不振に陥っていた中、10回に決勝タイムリーを打ち、大会連覇に大きく貢献しました。
2012年のシーズン途中にトレードでヤンキースに移籍し、オリックス時代から慣れ親しんだ背番号「51」ではなく「31」をつけました。その後、2015年にマーリンズに移籍し控えの外野手として出場機会が限られる中、徹底したトレーニングと体調管理を続けて2016年、ピート・ローズさんが持っていた大リーグの通算安打記録4256本を日米通算で超え、8月には大リーグ史上30人目となる通算3000本安打に到達しました。
2018年のシーズンにマリナーズに復帰し、翌年に東京ドームで行われた開幕カードに2試合出場した後に現役引退を表明し、記録を作り続けてきた競技人生を終えました。
プロ野球で9年、大リーグで19年のあわせて28年にわたる現役時代の成績は日米通算で▽安打数が前人未到の4367本▽ホームラン235本▽1309打点▽708盗塁で、通算打率はプロ野球で3割5分3厘、大リーグで3割1分1厘と、ともに3割を大きく上回りました。
イチロー氏は引退後も野球界と深く関わっていて、依頼が来た高校の野球部を訪問して、その培った技術や野球理論などを伝えているほか、女子野球のチームと定期的に試合を行うなど次世代の育成や発展に大きく貢献しています。
◇岩瀬仁紀氏 経歴◇
前人未到の407セーブを記録するなど長年、中日の抑えとして活躍した岩瀬氏は愛知県出身の50歳。愛知大から社会人野球のNTT東海を経て、1998年のドラフト2位で中日に入団しました。
1年目から、当時の監督だった星野仙一さんの信頼を得て1軍で起用され、140キロ台ながらキレのある速球と鋭く曲がるスライダーを持ち味にリリーフとして安定したピッチングを見せ、最優秀中継ぎのタイトルを獲得しました。
落合博満監督が就任した6年目の2004年からは抑えを任され、2005年に当時の1シーズンのプロ野球記録となる46セーブをあげるなど、11年連続で20セーブ以上をあげ、この間、4回のリーグ優勝と1回の日本一に貢献しチームの黄金時代を支えました。
2011年には現在ヤクルトの監督を務める高津臣吾さんの持っていた通算セーブのプロ野球記録を上回り、その2年後には、大リーグのマリナーズなどで活躍した佐々木主浩さんが日米通算であげた381セーブも超えて、球界を代表する抑え投手となりました。
中日一筋20年間の現役生活で▽最多セーブ5回▽最優秀中継ぎ3回などリリーフとして数々のタイトルを獲得したほか、です。
◇掛布雅之氏 経歴◇
掛布氏は千葉県出身の69歳。1974年に習志野高校からドラフト6位で阪神に入団しました。1年目から1軍に抜てきされプロ野球選手としては小柄な体格ながらも勝負強いバッティングを持ち味に長く阪神の4番として活躍しました。
6年目の1979年にホームラン48本を打って初めてのホームラン王に輝くなど▽ホームラン王3回▽打点王1回▽ベストナインに7回輝いたほか、▽守備の優れた選手に贈られる当時のダイヤモンドグラブ賞にもサードで6回選ばれるなど攻守ともに数多くのタイトルを獲得しました。
1985年には巨人との「伝統の一戦」で、3番のランディ・バースさん、5番の岡田彰布 前監督とともに“バックスクリーン3連発”として今も語り継がれる甲子園球場のセンターへの3者連続ホームランを記録し、この年の球団史上初となる日本一に大きく貢献しました。
けがなどの影響もあり1988年に33歳で引退しましたが、阪神ひと筋でプレーしたことからで親しまれ、15年間の現役生活で▽ホームラン349本▽1019打点▽1656安打の成績を残しました。
引退したあとは、野球解説者などを務めた一方で、長い間ユニフォームを着ることはありませんでしたが、2013年のオフに指導者として25年ぶりに阪神に復帰し、2016年のシーズンからは現役時代と同じ背番号「31」をつけて2軍監督を2年務めました。