僕はチームラボという会社をやってます
僕はチームラボという会社をやってます
チームラボは
エンジニアだとかプログラマとかデザイナーだとか
CGのアニメーターとか建築家や数学者
そういう風に実際に手を動かすスペシャリスト
そういうスペシャリストの集団でできてます
スペシャリストが自分の専門領域の範囲を超えて
共に考え 共に作る
そういうプロセスを通して物を作っている
そういう集団です
僕等は
サイエンスだとかテクノロジーだとかデザインだとかアート
そういうものの境界線を曖昧にしながら
実験と革新 そういうものをテーマに
何か自分達が作ることを通して
もしくは作るプロセスを通して
何か未来のヒントみたいなものを 見付けていければ良いなと思ってやっています
僕等は
社会にとってテクノロジーとクリエィティビティ
そういうものが最も重要であると考えて起業しました
今日は自分達の活動を通して
普段感じている事
そして発見したこと
具体的には個人や社会にとってのクリエィティビティ
そういうものは僕達が認識している以上に
豊な文化の上に成り立っている
そういうお話ができれば良いなと思っています
情報社会になって
情報の共有スピードは極めて激しくなって
例えば特に言語で言語化できる領域や
論理化できる領域
そういう領域は共有スピードが極めて激しいので
競争の差異を産まなくなってきてるような 気がしています
むしろカッコイイとかカワイイとか きもちいい とか オモロイとか
そういう領域を僕等は 文化依存度の高い領域と呼んでいますが
文化依存度の高い領域こそが
競争の源泉になってきている
つまり文化依存度の高い領域は作る方法論が
言語や論理で記述できない
よって共有しにくい
共有しにくいが故に競争の源泉になっていく
つまり差異を生んでいくんじゃないか
そういう風に考えています
そういう意味で僕等は僕等の文化
そのものを 紐解いていきたい
そういう風に考えています
文化と言っても表面的な形式ではなくて
文化の裏側にあるような
世界をどう捉えているか
世界をどう認識しているか
そういうものを ちゃんと紐解きたいと思っています
そういう意味で
僕等はアート作品を作っています
アート作品を作るプロセスを通して
自分達の文化の裏側にあるものを
そういうものをちょっとづつでも
紐解けていければ良いなと思って作っているのです
具体的にどんな作品を作っているかというと
こういうような日本画のようなアニメーション
日本画のような映像作品を作っています
どういう思いで作り始めたかというと
西洋文明が入ってくる前
昔の日本人にとって
昔の日本人は今と違った風に世界を捉えていて
今と違った風に捉えていたが故に
見えている風景が 見えている世界が 今とは違ったんじゃないかと思っています
よく日本画は平面的だと言われますけれども
それは現代人にとって平面的に見えるだけであって
当時の日本人にとっては
それは空間に見えていた
つまり今の人が写真を見て空間だと感じていたように
当時の人にとっては日本画を見たら
それは空間だと感じだでしょうし
もっと言うと世界を見たときに
日本画のように見えていたんじゃないか
そういう風に思っています
それはつまり もっと言うと
西洋のパースペクティブと同じように
日本画にも空間認識のちゃんとした論理構造があって
それはパースペクティブとは違うけれども
きちんとした空間認識の論理構造がある
そういう風に思っているのです
僕達はそういうような論理構造を模索して
それを自分達は超主観空間と 呼んでいるんですけれども
そういう論理構造を元に作品を作っています
つまり具体的に言うと
一旦コンピュータの裏側に この様に
一旦空間を作ってオブジェクトも全部立体的に作って
一旦このように空間を作ってと言ったのですけれども
これはコンピュータ上に作った空間を
パースペクティブで見た図ですよね
ディスプレイに表現された時点で 空間は表現できないので
何らかの論理変換をして平面に落として
ディスプレイに表示しているんですけれども
これはコンピュータ上の空間を
パースペクティブで見た
で僕等が模索した日本の空間の論理構造
そういう物で平面化してですね
こういう風な平面にします
これは 裏側は同じ空間を
パースペクティブで見ると こうなんですけど
日本的な空間認識で見ると こういう風になると
そういう風に論理構造を元に 空間を論理的に平面化して
映像作品にしています
実際この様に作った作品を展示していると
見終った人達が見終わった後
チームラボさんは 何レイヤーでアニメーションを作っているんですか
みたいなことを凄い質問されます
よく自分は色んな所で
国語力がないだとか日本語が崩壊しているだとか
何言ってるかさっぱりわからないだとか
ネットを見ると書かれていたりするので
多分僕の日本語は崩壊しているが故に
何を言っているかわからないんだろうな
と思って悲しい気持ちにいつもなるんですけれども
一生懸命空間で作ってるんですよって言っても
あーそうですかー
で一体何レイヤーでアニメーション作ってるんですか
馬鹿にしてるのかなって思うこともあるんですけれど
冷静になって自分達が作ったものを
こういう風に見ると
確かに空間で僕達は作ってるものの
出来上がったものを見ると
まるで いくつかのレイヤーで 描いているかの様に見えます
なる程確かにレイヤーで見えると
つまり日本の空間認識で世界を見ると
もしかしたらレイヤーに見えやすいんじゃないか
もっと言うと昔の日本の人達には
世界がレイヤーに見えていたんじゃないか
そういう風に思えはじめたんです
そういう風に考えると色んなことが繋っていって
例えば世界がレイヤーに見えていると
実際 人が人工的に空間をデザインするとき
世界はレイヤーに見えているので
デザインもレイヤーになります
つまり人が空間をデザインするときは
レイヤーでデザインしたのではないか
これは典型的な日本の庭
実際レイヤーでデザインされてます
借景まであります
借景は一個のレイヤーですね
本当は凄い空間なのに
レイヤーでデザインされていて
逆に西洋は
世界をもちろんパースペクティブで見ていたので
世界をパースペクティブで見ていると
実際人工的に人が空間をデザインするとき
パースペクティブでデザインしたと思うんです
これは典型的な西洋の庭
パースペクティブでデザインされていますね
パースペクティブっていうのは
パースペクティブでデザインされた空間ていうのは
勿論横に動くと空間が歪んでしまいます
つまり空間が歪んでしまうので横に動けない
なので動線がこの様に真っ直ぐ
動線ができたんじゃないか
そういう風に思うんです
逆にレイヤーでデザインされた空間というのは
正面に移動するとレイヤーが壊れてしまうので
正面には移動できなくて
ただし横方向に中心という概念がないので
横方向に自由に動けます
横方向に自由に動けるということは
横方向に動線ができたんじゃないか
そういう風に思うんです
つまり
空間のデザインの違いが人の動線の違いを生み
人の動線の違いを産んだからこそ
例えば西洋の人は自分の動きに対して
いつも世界は正面にあり
日本の人は自分の動きに対して
いつも世界は横側にあったんじゃないか
そういう風に思うんです
一瞬話が変わるんですけど
これはマリオ
僕が大好きなマリオ
実はマリオというのは
世界で一番始めに
世界で始めて 横スクロールアクションという概念を生みだして
実際世界中で大ヒットしています
世界中の人々はマリオを生んだ人に対して
天才なんじゃないかと神の様に賞賛しています
でも考えてみて下さい
マリオを産んだ人は京都にいて
京都は伝統的な日本の空間
伝統的な空間の認識によって デザインされた空間に溢れていて
もしかしたら毎日の生活の中で
自分の生活に対して世界はいつも横側にあって
その横側にある世界はレイヤーでデザインされていて
毎日普段の生活の中で見ている風景を
そのまま世界に ゲームという世界に落としただけなのかもしれません
実際マリオっていうのは よく2次元って言うんですけれども
マリオの背景っていうのは レイヤーでデザインされていて
実際マリオを遊ぶとまるで空間の中を
マリオが駆け巡っているような感じに
子供の頃 皆してたと思うんですね
また話が変わっちゃうんですけれども
これは有名な洛中洛外図 典型的な大和絵ですね
これはドラクエ
再び マリオ
全然関係なさそうですけども
実はこれは同じ空間認識による平面だと
僕等は思ってます
全く同じ空間認識の論理構造で できた平面だと思っていて
例えばここに梯子があって横に橋があります
これは学校の先生に怒られる絵ですよね
でも日本の空間認識の論理構造で言うと
この梯子と橋は正しい表現なんですね
今 散々
日本の空間認識の論理構造みたいな話を しているんですけれど
もうちょっと考えてみましょう
考えやすい為に西洋のパースペクティブから おさらいしましょう
皆はもしかしたら判るかもしれないけど
もう一回おさらい
これは有名なおばちゃんの絵ですね
(笑)
この有名なおばちゃんの絵は もちろんパースペクティブ
西洋の絵なので パースペクティブによって認識されています
パースペクティブっていうのは
画家 視点が青い人としたら
このような三角形の水色の空間を 認識しているっていうことですね
おばちゃんは赤い人ですね
水色の真ん中におばちゃんが立っています
そういう風な水色の空間の中に おばちゃんが立っている絵を
パースペクティブで平面化したのが さっきのおばちゃんの絵ですね
ここで
さっきのおばちゃんの絵を見ながら
おばちゃんになりきったとしましょう
もちろんおばちゃんには なりきりたくないんですけど
ここは我慢しておばちゃんになりきりましょう
仮におばちゃんになりきったら見えている風景は
我々側つまりあの図で言うとピンク側ですよね
おばちゃんになりきったらピンク側の風景が見える
つまり絵を見ながら絵の登場人物になりきると 見えている風景は変わる
まぁあたりまえですよね
じゃぁ 日本画 大和絵をもう一回見ましょう
これは有名な大和絵 典型的な大和絵ですね
大和絵はどういう風に空間が見えていたのか
大和絵に視点という概念は 極めて無いと思っているんですけれど
ここではわかりやすい為に視点があるとしましょう
視点があの青い人 手を上げている青い人
あの人は四角い水色の空間が見えていて
見えている風景を書いたのが左側の大和絵ですね
まさかこんな風に世界が見えるはずがない と思うかもしれない
でもそれはたまたま西洋文明に犯されているだけで
もしかしたら見えているかもしれない
そもそもだって人はこんな風に見えてないです
人間の目っていうのは極めてフォーカスの範囲が 極めて浅くて極めて狭い
例えば僕の顔を見た瞬間 スクリーンは見えてないですよね
もしくは僕の顔を見た瞬間
前の人の後頭部は見えていないと思います
視界に入っているはずなのに見えていない
つまり極めて浅くて極めて狭いんですね
それは自分達が認識している以上に 極めて浅くて極めて狭い
でもそんなに狭くてそんなに浅いと 思っていないですよね
なんで思っていないか
もちろん時間軸 人間には時間軸があって
視点もいっぱい動いてフォーカスもいっぱい動いて
色々認識している
その時間軸の中でいっぱい認識している
狭くて浅い部分を脳の中で 論理的に合成しているんですね
その論理構造が パースペクティブの論理構造で認識している
だから人間は今風景が
まるで写真の様に見えているような気がするし
写真を見たらそれは空間だと感じる
そういうわけですね
だから所詮これも脳の合成だと考えれば
こういう風に見えていたとしても
もしかしたらおかしくないかもしれない
納得いかないかもしれないけど ここではこういう風に見えていたとしましょう
昔の日本人は
青い人が四角い周りの空間を見えていて
それがあの風景ですね あの絵です
仮にそういう風に見えてたとして
黒い服を着たおじさんが居ますよね
黒い服を着たおじさん ちょっと位置が違いますけども
簡易的にそれは赤い人だとしましょう
水色の空間に赤い人がいる
それを見ているのがこの絵ですよね
仮に絵を見ていて黒い人になりきったとしましょう
黒い人になりきったら見えている風景は
このピンク色の部分ですね
ピンク色の部分が黒い人の見えている風景
見えている風景は殆んど変わらないですね
つまり何が言いたいかというと
絵を見ていて絵の登場人物になりきっても
見えている風景は変わらないわけですね
言い換えると絵を見ていて 絵の登場人物になりきっても
絵を見続けれる
さっきのおばちゃんの絵は絵を見ていて
おばちゃんになりきった瞬間絵は見続けられない
でもこの絵は
絵を見ていて絵になりきっても見えている風景は 変わらないので絵を見続けれる
また再びドラクエ
僕は子供の頃ドラクエをやって レベルアップをする度に狂喜してました
まるで自分事の様に嬉しかったです
自分事の様にではなくて 自分事だったんですね
でも映画と違って ゲームっていうのは操作しないといけない
ゲームを操作するっていうことは
絵を客観的に認識して
絵の中の何処に人が居て
どこの位置に客観的に居るから
上に操作するとか右に操作するとかいうわけです
つまり絵を絵として認識し続けなければいけない
にもかかわらず レベルアップする度に自分事の様に喜んだ
つまり完全に登場人物になりきりながらも 絵を見続けれたんですね
逆にパースペクティブの世界だと 登場人物になりきると
絵は見えなくなる
なのでどうなるかというと
逆に登場人物が出せない
これは典型的なアメリカのゲームですね
なので銃だけだとかハンドルだけだとか
コックピットだけだとか そういう風になる
もちろん大袈裟かもしれないけれども
先人たちが長年構築していった日本の空間表現を
実は現代の日本人も無意識に受け継いでいて
その日本の空間表現が インタラクティブなコンテンツである
ゲームの空間表現に 非常に相性が良かったのではないか
だからこそ日本の当時のゲームっていうのは
世界中を夢中にさせることができたんじゃないか
そういう風にも思えるんですね
何が言いたかったかというと
クリエィティビティっていうものは
自分達が思っているよりも
個人 個人の能力をはるかに超越して
豊かな文化の上に成り立っている
そう 文化は長い歴史の中で
非言語にそして無自覚に連続しながら
新たなものを生んでいっているんですね
それはもっと言うと
文化を生み続けることが 文化を連続させていくことであり
文化を生み続け 文化を連続させることが
個人のもしくは社会の
クリエィティビティを生んでいると思うんですね
今日はありがとうございました
(拍手)
僕はチームラボという会社をやってます
僕
チーム
会社
という
チームラボは
チーム
エンジニアだとかプログラマとかデザイナーだとか
デザイナー
エンジニア
プログラマ
CGのアニメーターとか建築家や数学者
数学
者
建築
家
そういう風に実際に手を動かすスペシャリスト
動かす
実際
風
手
そういう
スペシャリスト
そういうスペシャリストの集団でできてます
集団
できる
そういう
スペシャリスト
スペシャリストが自分の専門領域の範囲を超えて
範囲
超える
自分
専門
領域
スペシャリスト
共に考え 共に作る
考える
共に
作る
そういうプロセスを通して物を作っている
作る
物
を通して
そういう
プロセス
そういう集団です
集団
そういう
僕等は
僕
等
サイエンスだとかテクノロジーだとかデザインだとかアート
デザイン
テクノロジー
アート
サイエンス
そういうものの境界線を曖昧にしながら
線
境界
曖昧
ながら
そういう
実験と革新 そういうものをテーマに
実験
テーマ
革新
そういう
何か自分達が作ることを通して
何
自分
作る
達
を通して
もしくは作るプロセスを通して
作る
を通して
プロセス
もしくは
何か未来のヒントみたいなものを 見付けていければ良いなと思ってやっています
僕等は
僕
等
社会にとってテクノロジーとクリエィティビティ
社会
にとって
テクノロジー
そういうものが最も重要であると考えて起業しました
考える
最も
重要
そういう
起業
今日は自分達の活動を通して
活動
今日
自分
達
を通して
普段感じている事
普段
感じる
事
そして発見したこと
発見
そして
具体的には個人や社会にとってのクリエィティビティ
社会
具体
個人
的
にとって
そういうものは僕達が認識している以上に
以上
僕達
認識
そういう
豊な文化の上に成り立っている
豊
文化
上
成り立つ
そういうお話ができれば良いなと思っています
思う
できる
良い
お話
そういう
情報社会になって
社会
情報
情報の共有スピードは極めて激しくなって
激しい
情報
極めて
スピード
共有
例えば特に言語で言語化できる領域や
例えば
特に
言語
できる
化
領域
論理化できる領域
できる
化
領域
論理
そういう領域は共有スピードが極めて激しいので
激しい
極めて
スピード
共有
そういう
領域
競争の差異を産まなくなってきてるような 気がしています
むしろカッコイイとかカワイイとか きもちいい とか オモロイとか
そういう領域を僕等は 文化依存度の高い領域と呼んでいますが
文化依存度の高い領域こそが
文化
度
依存
高い
領域
競争の源泉になってきている
競争
源泉
つまり文化依存度の高い領域は作る方法論が
文化
方法
度
つまり
依存
高い
作る
論
領域
言語や論理で記述できない
言語
できる
記述
論理
よって共有しにくい
共有
よって
にくい
共有しにくいが故に競争の源泉になっていく
競争
共有
故に
源泉
にくい
つまり差異を生んでいくんじゃないか
つまり
差異
生む
そういう風に考えています
考える
風
そういう
そういう意味で僕等は僕等の文化
文化
僕
等
意味
そういう
そのものを 紐解いていきたい
紐解く
そのもの
そういう風に考えています
考える
風
そういう
文化と言っても表面的な形式ではなくて
文化
表面
形式
的
言う
文化の裏側にあるような
文化
裏側
世界をどう捉えているか
世界
捉える
世界をどう認識しているか
世界
認識
そういうものを ちゃんと紐解きたいと思っています
思う
ちゃんと
そういう
紐解く
そういう意味で
意味
そういう
僕等はアート作品を作っています
僕
等
作品
作る
アート
アート作品を作るプロセスを通して
作品
作る
を通して
プロセス
アート
自分達の文化の裏側にあるものを
文化
自分
裏側
達
そういうものをちょっとづつでも
そういう
紐解けていければ良いなと思って作っているのです
紐解ける
思う
良い
いける
作る
具体的にどんな作品を作っているかというと
どんな
具体
作品
的
作る
こういうような日本画のようなアニメーション
アニメーション
日本
画
こういう
日本画のような映像作品を作っています
日本
作品
映像
画
作る
どういう思いで作り始めたかというと
始める
作る
思い
どういう
西洋文明が入ってくる前
西洋
文明
前
入る
昔の日本人にとって
昔
にとって
日本人
昔の日本人は今と違った風に世界を捉えていて
世界
昔
今
風
違う
日本人
捉える
今と違った風に捉えていたが故に
今
風
違う
故に
捉える
見えている風景が 見えている世界が 今とは違ったんじゃないかと思っています
よく日本画は平面的だと言われますけれども
日本
的
画
言う
けれども
平面
それは現代人にとって平面的に見えるだけであって
見える
現代
的
人
にとって
平面
当時の日本人にとっては
当時
にとって
日本人
それは空間に見えていた
見える
空間
つまり今の人が写真を見て空間だと感じていたように
見る
感じる
つまり
人
今
写真
空間
当時の人にとっては日本画を見たら
日本
見る
当時
人
画
にとって
それは空間だと感じだでしょうし
感じる
空間
もっと言うと世界を見たときに
世界
見る
言う
もっと
日本画のように見えていたんじゃないか
見える
日本
画
そういう風に思っています
思う
風
そういう
それはつまり もっと言うと
つまり
言う
もっと
西洋のパースペクティブと同じように
西洋
同じ
パースペクティブ
日本画にも空間認識のちゃんとした論理構造があって
日本
ちゃんと
構造
画
空間
認識
論理
それはパースペクティブとは違うけれども
違う
けれども
パースペクティブ
きちんとした空間認識の論理構造がある
きちんと
構造
空間
認識
論理
そういう風に思っているのです
思う
風
そういう
僕達はそういうような論理構造を模索して
構造
僕達
そういう
模索
論理
それを自分達は超主観空間と 呼んでいるんですけれども
そういう論理構造を元に作品を作っています
元
作品
構造
作る
そういう
論理
つまり具体的に言うと
具体
つまり
的
言う
一旦コンピュータの裏側に この様に
コンピュータ
様
一旦
裏側
一旦空間を作ってオブジェクトも全部立体的に作って
オブジェクト
一旦
的
全部
作る
空間
立体
一旦このように空間を作ってと言ったのですけれども
一旦
言う
作る
空間
けれども
これはコンピュータ上に作った空間を
コンピュータ
上
作る
空間
パースペクティブで見た図ですよね
見る
図
パースペクティブ
ディスプレイに表現された時点で 空間は表現できないので
何らかの論理変換をして平面に落として
何らかの
落とす
変換
論理
平面
ディスプレイに表示しているんですけれども
表示
けれども
ディスプレイ
これはコンピュータ上の空間を
コンピュータ
上
空間
パースペクティブで見た
見る
パースペクティブ
で僕等が模索した日本の空間の論理構造
僕
等
日本
構造
空間
模索
論理
そういう物で平面化してですね
物
化
そういう
平面
こういう風な平面にします
風
こういう
平面
これは 裏側は同じ空間を
同じ
空間
裏側
パースペクティブで見ると こうなんですけど
見る
パースペクティブ
日本的な空間認識で見ると こういう風になると
日本
見る
的
風
空間
認識
こういう
そういう風に論理構造を元に 空間を論理的に平面化して
映像作品にしています
作品
映像
実際この様に作った作品を展示していると
様
作品
実際
展示
作る
見終った人達が見終わった後
後
見る
終わる
終る
人達
チームラボさんは 何レイヤーでアニメーションを作っているんですか
みたいなことを凄い質問されます
凄い
質問
みたい
よく自分は色んな所で
自分
所
色んな
国語力がないだとか日本語が崩壊しているだとか
力
国語
崩壊
日本語
何言ってるかさっぱりわからないだとか
何
さっぱり
言う
わかる
ネットを見ると書かれていたりするので
見る
書く
ネット
多分僕の日本語は崩壊しているが故に
僕
多分
崩壊
故に
日本語
何を言っているかわからないんだろうな
何
言う
わかる
と思って悲しい気持ちにいつもなるんですけれども
思う
悲しい
気持ち
いつも
けれども
一生懸命空間で作ってるんですよって言っても
一生懸命
言う
作る
空間
あーそうですかー
で一体何レイヤーでアニメーション作ってるんですか
アニメーション
何
一体
作る
馬鹿にしてるのかなって思うこともあるんですけれど
思う
馬鹿
けれど
冷静になって自分達が作ったものを
冷静
自分
作る
達
こういう風に見ると
見る
風
こういう
確かに空間で僕達は作ってるものの
確か
作る
空間
僕達
ものの
出来上がったものを見ると
見る
出来上がる
まるで いくつかのレイヤーで 描いているかの様に見えます
なる程確かにレイヤーで見えると
確か
見える
程
つまり日本の空間認識で世界を見ると
世界
日本
見る
つまり
空間
認識
もしかしたらレイヤーに見えやすいんじゃないか
見える
やすい
もしか
もっと言うと昔の日本の人達には
昔
日本
言う
もっと
人達
世界がレイヤーに見えていたんじゃないか
世界
見える
そういう風に思えはじめたんです
はじめる
風
思える
そういう
そういう風に考えると色んなことが繋っていって
繋る
考える
風
色んな
そういう
例えば世界がレイヤーに見えていると
世界
例えば
見える
実際 人が人工的に空間をデザインするとき
実際
人工
的
人
空間
デザイン
世界はレイヤーに見えているので
世界
見える
デザインもレイヤーになります
デザイン
つまり人が空間をデザインするときは
つまり
人
空間
デザイン
レイヤーでデザインしたのではないか
デザイン
これは典型的な日本の庭
日本
典型
的
庭
実際レイヤーでデザインされてます
実際
デザイン
借景まであります
借景
借景は一個のレイヤーですね
イヤー
個
一
借景
本当は凄い空間なのに
本当は
凄い
空間
レイヤーでデザインされていて
デザイン
逆に西洋は
西洋
逆
世界をもちろんパースペクティブで見ていたので
世界
もちろん
見る
パースペクティブ
世界をパースペクティブで見ていると
世界
見る
パースペクティブ
実際人工的に人が空間をデザインするとき
実際
人工
的
人
空間
デザイン
パースペクティブでデザインしたと思うんです
思う
デザイン
パースペクティブ
これは典型的な西洋の庭
西洋
典型
的
庭
パースペクティブでデザインされていますね
デザイン
パースペクティブ
パースペクティブっていうのは
っていう
パースペクティブ
パースペクティブでデザインされた空間ていうのは
ていう
空間
デザイン
パースペクティブ
勿論横に動くと空間が歪んでしまいます
動く
勿論
しまう
歪む
横
空間
つまり空間が歪んでしまうので横に動けない
動ける
しまう
つまり
歪む
横
空間
なので動線がこの様に真っ直ぐ
なので
線
真っ直ぐ
様
動
動線ができたんじゃないか
線
できる
動
そういう風に思うんです
思う
風
そういう
逆にレイヤーでデザインされた空間というのは
逆
空間
デザイン
という
正面に移動するとレイヤーが壊れてしまうので
壊れる
移動
しまう
正面
正面には移動できなくて
移動
できる
正面
ただし横方向に中心という概念がないので
方向
中心
ただし
概念
横
という
横方向に自由に動けます
動ける
自由
方向
横
横方向に自由に動けるということは
動ける
自由
方向
横
という
横方向に動線ができたんじゃないか
線
方向
できる
横
動
そういう風に思うんです
思う
風
そういう
つまり
つまり
空間のデザインの違いが人の動線の違いを生み
線
違い
人
空間
デザイン
生み
動
人の動線の違いを産んだからこそ
線
違い
人
産む
動
例えば西洋の人は自分の動きに対して
西洋
例えば
人
動き
自分
に対して
いつも世界は正面にあり
世界
いつも
正面
日本の人は自分の動きに対して
日本
人
動き
自分
に対して
いつも世界は横側にあったんじゃないか
世界
いつも
側
横
そういう風に思うんです
思う
風
そういう
一瞬話が変わるんですけど
変わる
一瞬
話
これはマリオ
マリオ
僕が大好きなマリオ
マリオ
僕
大好き
実はマリオというのは
マリオ
実は
という
世界で一番始めに
世界
一番
始め
世界で始めて 横スクロールアクションという概念を生みだして
実際世界中で大ヒットしています
実際
世界中
大
ヒット
世界中の人々はマリオを生んだ人に対して
マリオ
人
世界中
生む
人々
に対して
天才なんじゃないかと神の様に賞賛しています
様
神
天才
賞賛
でも考えてみて下さい
考える
下さる
マリオを産んだ人は京都にいて
マリオ
人
産む
京都
京都は伝統的な日本の空間
日本
伝統
的
空間
京都
伝統的な空間の認識によって デザインされた空間に溢れていて
もしかしたら毎日の生活の中で
生活
中
毎日
もしか
自分の生活に対して世界はいつも横側にあって
生活
世界
いつも
側
自分
横
に対して
その横側にある世界はレイヤーでデザインされていて
世界
側
横
デザイン
毎日普段の生活の中で見ている風景を
生活
風景
普段
見る
中
毎日
そのまま世界に ゲームという世界に落としただけなのかもしれません
実際マリオっていうのは よく2次元って言うんですけれども
マリオの背景っていうのは レイヤーでデザインされていて
実際マリオを遊ぶとまるで空間の中を
マリオ
まるで
実際
中
遊ぶ
空間
マリオが駆け巡っているような感じに
マリオ
感じ
巡る
駆ける
子供の頃 皆してたと思うんですね
思う
皆
頃
子供
また話が変わっちゃうんですけれども
変わる
話
ちゃう
けれども
これは有名な洛中洛外図 典型的な大和絵ですね
これはドラクエ
再び マリオ
マリオ
再び
全然関係なさそうですけども
けども
関係
全然
実はこれは同じ空間認識による平面だと
実は
同じ
空間
認識
による
平面
僕等は思ってます
思う
僕
等
全く同じ空間認識の論理構造で できた平面だと思っていて
例えばここに梯子があって横に橋があります
例えば
梯子
橋
横
これは学校の先生に怒られる絵ですよね
怒る
絵
学校
先生
でも日本の空間認識の論理構造で言うと
日本
構造
言う
空間
認識
論理
この梯子と橋は正しい表現なんですね
正しい
表現
梯子
橋
今 散々
今
散々
日本の空間認識の論理構造みたいな話を しているんですけれど
もうちょっと考えてみましょう
考える
ちょっと
考えやすい為に西洋のパースペクティブから おさらいしましょう
皆はもしかしたら判るかもしれないけど
皆
判る
しれる
もしか
もう一回おさらい
回
一
さらい
これは有名なおばちゃんの絵ですね
ちゃん
絵
有名
(笑)
笑
この有名なおばちゃんの絵は もちろんパースペクティブ
西洋の絵なので パースペクティブによって認識されています
パースペクティブっていうのは
っていう
パースペクティブ
画家 視点が青い人としたら
画家
人
青い
視点
このような三角形の水色の空間を 認識しているっていうことですね
おばちゃんは赤い人ですね
ちゃん
人
赤い
水色の真ん中におばちゃんが立っています
ちゃん
立つ
真ん中
水色
そういう風な水色の空間の中に おばちゃんが立っている絵を
パースペクティブで平面化したのが さっきのおばちゃんの絵ですね
ここで
さっきのおばちゃんの絵を見ながら
さっき
ちゃん
見る
絵
ながら
おばちゃんになりきったとしましょう
ちゃん
もちろんおばちゃんには なりきりたくないんですけど
ここは我慢しておばちゃんになりきりましょう
ちゃん
我慢
仮におばちゃんになりきったら見えている風景は
ちゃん
見える
風景
仮に
我々側つまりあの図で言うとピンク側ですよね
我々
図
側
つまり
ピンク
言う
おばちゃんになりきったらピンク側の風景が見える
ちゃん
見える
風景
側
ピンク
つまり絵を見ながら絵の登場人物になりきると 見えている風景は変わる
まぁあたりまえですよね
あたりまえ
じゃぁ 日本画 大和絵をもう一回見ましょう
日本
見る
回
じゃぁ
画
一
大和絵
これは有名な大和絵 典型的な大和絵ですね
典型
的
有名
大和絵
大和絵はどういう風に空間が見えていたのか
見える
風
空間
どういう
大和絵
大和絵に視点という概念は 極めて無いと思っているんですけれど
ここではわかりやすい為に視点があるとしましょう
為
やすい
わかる
視点
視点があの青い人 手を上げている青い人
人
青い
上げる
手
視点
あの人は四角い水色の空間が見えていて
見える
四角い
人
空間
水色
見えている風景を書いたのが左側の大和絵ですね
見える
風景
書く
左側
大和絵
まさかこんな風に世界が見えるはずがない と思うかもしれない
でもそれはたまたま西洋文明に犯されているだけで
西洋
文明
たまたま
犯す
もしかしたら見えているかもしれない
見える
しれる
もしか
そもそもだって人はこんな風に見えてないです
見える
だって
人
風
こんな
そもそも
人間の目っていうのは極めてフォーカスの範囲が 極めて浅くて極めて狭い
例えば僕の顔を見た瞬間 スクリーンは見えてないですよね
もしくは僕の顔を見た瞬間
僕
見る
瞬間
顔
もしくは
前の人の後頭部は見えていないと思います
思う
見える
前
人
後頭部
視界に入っているはずなのに見えていない
見える
入る
視界
つまり極めて浅くて極めて狭いんですね
浅い
つまり
極めて
狭い
それは自分達が認識している以上に 極めて浅くて極めて狭い
でもそんなに狭くてそんなに浅いと 思っていないですよね
なんで思っていないか
思う
もちろん時間軸 人間には時間軸があって
もちろん
人間
軸
時間
視点もいっぱい動いてフォーカスもいっぱい動いて
いっぱい
動く
フォーカス
視点
色々認識している
色々
認識
その時間軸の中でいっぱい認識している
いっぱい
中
軸
時間
認識
狭くて浅い部分を脳の中で 論理的に合成しているんですね
その論理構造が パースペクティブの論理構造で認識している
だから人間は今風景が
だから
人間
風景
今
まるで写真の様に見えているような気がするし
気
見える
まるで
様
写真
写真を見たらそれは空間だと感じる
見る
感じる
写真
空間
そういうわけですね
そういう
だから所詮これも脳の合成だと考えれば
考える
だから
合成
脳
所詮
こういう風に見えていたとしても
見える
風
こういう
として
もしかしたらおかしくないかもしれない
おかしい
しれる
もしか
納得いかないかもしれないけど ここではこういう風に見えていたとしましょう
昔の日本人は
昔
日本人
青い人が四角い周りの空間を見えていて
周り
見える
四角い
人
青い
空間
それがあの風景ですね あの絵です
風景
絵
仮にそういう風に見えてたとして
見える
風
仮に
そういう
として
黒い服を着たおじさんが居ますよね
居る
おじさん
着る
黒い
服
黒い服を着たおじさん ちょっと位置が違いますけども
簡易的にそれは赤い人だとしましょう
的
人
簡易
赤い
水色の空間に赤い人がいる
人
赤い
空間
水色
それを見ているのがこの絵ですよね
見る
絵
仮に絵を見ていて黒い人になりきったとしましょう
見る
人
絵
黒い
仮に
黒い人になりきったら見えている風景は
見える
風景
人
黒い
このピンク色の部分ですね
ピンク色
部分
ピンク色の部分が黒い人の見えている風景
ピンク色
見える
風景
部分
人
黒い
見えている風景は殆んど変わらないですね
変わる
見える
風景
つまり何が言いたいかというと
何
つまり
言う
絵を見ていて絵の登場人物になりきっても
見る
人物
登場
絵
見えている風景は変わらないわけですね
変わる
見える
風景
言い換えると絵を見ていて 絵の登場人物になりきっても
絵を見続けれる
続ける
見る
絵
さっきのおばちゃんの絵は絵を見ていて
さっき
ちゃん
見る
絵
おばちゃんになりきった瞬間絵は見続けられない
ちゃん
続ける
見る
瞬間
絵
られる
でもこの絵は
絵
絵を見ていて絵になりきっても見えている風景は 変わらないので絵を見続けれる
また再びドラクエ
再び
僕は子供の頃ドラクエをやって レベルアップをする度に狂喜してました
まるで自分事の様に嬉しかったです
まるで
様
嬉しい
事
自分
自分事の様にではなくて 自分事だったんですね
でも映画と違って ゲームっていうのは操作しないといけない
ゲームを操作するっていうことは
ゲーム
操作
っていう
絵を客観的に認識して
的
客観
絵
認識
絵の中の何処に人が居て
居る
中
何処
人
絵
どこの位置に客観的に居るから
位置
居る
的
客観
上に操作するとか右に操作するとかいうわけです
とかいう
上
操作
右
つまり絵を絵として認識し続けなければいけない
続ける
つまり
いける
絵
認識
として
にもかかわらず レベルアップする度に自分事の様に喜んだ
つまり完全に登場人物になりきりながらも 絵を見続けれたんですね
逆にパースペクティブの世界だと 登場人物になりきると
絵は見えなくなる
見える
絵
なのでどうなるかというと
なので
逆に登場人物が出せない
逆
人物
登場
出せる
これは典型的なアメリカのゲームですね
アメリカ
ゲーム
典型
的
なので銃だけだとかハンドルだけだとか
なので
銃
ハンドル
コックピットだけだとか そういう風になる
風
そういう
コックピット
もちろん大袈裟かもしれないけれども
もちろん
大袈裟
けれども
しれる
先人たちが長年構築していった日本の空間表現を
日本
表現
空間
先人
長年
構築
実は現代の日本人も無意識に受け継いでいて
現代
実は
受け継ぐ
無意識
日本人
その日本の空間表現が インタラクティブなコンテンツである
ゲームの空間表現に 非常に相性が良かったのではないか
だからこそ日本の当時のゲームっていうのは
日本
ゲーム
当時
だからこそ
っていう
世界中を夢中にさせることができたんじゃないか
できる
夢中
世界中
そういう風にも思えるんですね
風
思える
そういう
何が言いたかったかというと
何
言う
クリエィティビティっていうものは
っていう
自分達が思っているよりも
思う
自分
達
個人 個人の能力をはるかに超越して
能力
個人
はるか
超越
豊かな文化の上に成り立っている
文化
豊か
上
成り立つ
そう 文化は長い歴史の中で
文化
歴史
中
長い
非言語にそして無自覚に連続しながら
連続
言語
そして
ながら
非
無自覚
新たなものを生んでいっているんですね
新た
生む
それはもっと言うと
言う
もっと
文化を生み続けることが 文化を連続させていくことであり
文化を生み続け 文化を連続させることが
続ける
文化
連続
生む
個人のもしくは社会の
社会
個人
もしくは
クリエィティビティを生んでいると思うんですね
思う
生む
今日はありがとうございました
ありがとう
今日
ござる
(拍手)
拍手
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