学校の周辺では多くの犠牲者が出たため校舎を保存するか解体するかで意見が分かれ、市は「見るのがつらい」という人に配慮して校舎の一部を解体して保存する方針を決め、これまで工事を進めてきました。
一連の工事が終わり、発生から11年を経て3日公開が始まりました。
一方被害が小さかった山側の校舎は展示施設として整備され、当時学校にいた児童や教職員が裏山に避難したルートなどが壁一面に示され訪れた人が見入っていました。 仙台から来た60代の男性は、「初めて来ましたが、津波の威力や火災のすさまじさを感じました。じかに体験していないので、遺構として当時の教訓を知ることができよかったです」と話していました。 大阪から来た60代の元教員は、「大きな被害に胸が痛みます。子どもの命を守るために教員たちが災害で起こりうることを想像し、備えなければいけないと思いました」と話していました。 「震災遺構門脇小学校」は毎週月曜を除く午前9時から午後5時まで開館し毎月11日は月曜でも開館するということです。
震災当時、門脇小学校の校長だった鈴木洋子さん(71)は揺れの後、児童224人をすぐに裏山に避難させ、校舎内にいた人たちは被害を免れました。 地震と津波を想定した訓練を毎年行っていたことが、避難行動につながったということです。 ただ、学校にいなかった児童7人を含め、500人以上の住民が周辺の地区内で犠牲となり、校舎を保存するかどうか住民の意見が分かれました。 鈴木さんは市が設けた検討委員会に参加し、「つらい事実にも向き合い、未来の子どもが震災の教訓を学ぶ場にしなければいけない」などと保存を訴えてきました。 長い議論を経て公開となったことについて、鈴木さんは「長かったと感じますがようやく見ていただけることをうれしく思う」と話していました。 鈴木さんは語り部としてこの震災遺構を通して教訓を伝える活動をすることにしていて、「震災から11年がたち、今の中学1年ぐらいまでは当時のことを知らない。来た人が校舎や展示物を通してあの日の事実を知り、自分が住む地域に置き換えて防災を考えてもらえるような活動をしたい。未来に生きる人の命も守れるように伝えていきたい」と力を込めていました。
市によりますと震災当初は周辺に住んでいた人などから「つらい記憶を呼び起こす」として解体を望む声があった一方、有識者などからは「教訓を伝えるため残すべき」という意見もありました。 市は震災の2年後に住民や専門家と校舎のあり方などを検討する委員会を立ち上げ、議論を続けたうえで、震災から5年後に校舎の保存を決めました。 ただ、解体を望む住民への配慮や維持費の問題などから校舎の両側は解体することにしました。 その後、地元の住民グループが独自に地域住民などにアンケートを実施し、回答者の8割が校舎全体の保存を求めているという結果などを市に提出しましたが方針は変わらず、震災から11年を経て、一部解体したうえでの公開となりました。
当時の校長「未来の子ども 震災の教訓学ぶ場に」
保存か解体か 公開までの経緯