1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、建物の倒壊や火災が相次ぎ、避難生活の長期化で体調を崩すなどして亡くなる「災害関連死」も含めて6434人が亡くなりました。
発生から30年となる17日は、被害を受けた各地で追悼行事が行われ、神戸市中央区の公園「東遊園地」では、犠牲者を悼む灯籠が「1.17」や「よりそう」という文字のかたちに並べられています。
「よりそう」という文字には、震災を経験した人が少なくなっても被災者を忘れず寄り添い続けようとの思いや、この30年の間に起きた東日本大震災や能登半島地震の被災者も支えていこうとの思いが込められています。
地震が発生した午前5時46分には、訪れた人たちが静かに手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげました。
午後には東日本大震災と能登半島地震の発生時刻に黙とうが行われます。
阪神・淡路大震災をめぐっては、あわせて16兆円余りを投じて復興が進められてきました。
大規模な火災でおよそ4800棟が全焼した神戸市長田区では、去年10月、最後の1棟となる再開発ビルが完成し、復興関連事業のすべてがようやく終了しました。
一方で30年という歳月がもたらす課題にも直面しています。
NHKが被害が大きかった神戸市や西宮市など兵庫県内の12の市に住む人を対象にインターネットでアンケートを行った結果、震災を経験した1269人のうち6割余りが「記憶や教訓が風化していると思う」と答えています。
去年元日の能登半島地震など各地で災害が相次ぎ、南海トラフ巨大地震など新たな災害への備えも求められる中、過去の教訓を今後の防災にどう生かすのか、30年の歩みを見つめ変わらぬ課題を考える一日となります。
5:47 母親と弟を亡くした男性「教訓を語り継いでいきます」
東遊園地では、神戸市が主催した「追悼の集い」が開かれ、震災で母親と弟を亡くした神戸市の男性が遺族の代表としてあいさつしました。
神戸市垂水区の長谷川元気さん(38)は、8歳の時、当時住んでいた神戸市東灘区の木造2階建てアパートの1階の部屋で被災し、当時34歳だった母親の規子さんと1歳だった弟の翔人くんを亡くしました。
遺族代表あいさつ【動画ノーカットで】
(動画は6分3秒 データ放送ではご覧になれません)
長谷川さんの遺族代表あいさつです。
「阪神・淡路大震災が発生した30年前のきょう、私は小学校2年生でした。その当時、古い木造2階建てのアパートの1階の部屋に、父と母、年子の弟の陽平、1歳半の弟の翔人、そして私の、家族5人で住んでいました。震災が発生し、アパートの2階部分が1階に落ちてきて、1階の部屋は押しつぶされました。父と陽平と私は、押しつぶされた家の隙間にいて奇跡的に助かりましたが、母と翔人は大きな洋服ダンスの下敷きになり、亡くなりました。
母は、保育園の先生だったこともあり、子どもと遊ぶのが上手でした。私だけでなく近所の子どもたちも巻き込んで、おにごっこやかくれんぼをして 一緒に遊んでくれました。温かく、活気に満ちあふれた人でした。弟の翔人とは、よく電車ごっこやサッカーをして遊びました。サッカーボールを転がすと『バン!』と音がなるくらい勢いよく蹴り返してきました。将来はきっと立派なサッカー選手になれる、自慢の弟でした。
そんな母と翔人が亡くなったと知ったとき、私はとても後悔しました。『どうして、もっと母を優しくいたわることができなかったのだろう。どうして、もっと翔人と一緒に遊んであげられなかったのだろう。もっと、母と翔人の笑顔が見たかった。もっと、母と翔人と一緒にいたかった』そのとき、私は初めて知りました。今、自分の周りにいてくれている大切な人は、いて当たり前じゃない。一瞬にしていなくなってしまうこともあるのだということを。家族や親戚、友達といった、自分の周りにいる人のありがたさ。そして日常のありがたさを身をもって知りました。『後悔のないよう、一日一日を大切に生きよう。自分を支えてくれている周りの人に目を向け、感謝の気持ちを伝えよう』このことを胸に刻み、この30年間、生きてきました。
父は、震災25年目にテレビの取材で『奥さんと子どもを失ってつらいはずなのに、めげずに子どもたちを育てられたのはどうしてですか』と聞かれたとき、こう答えました。『それは、2人の子どもたちが生きていてくれたからです。この子たちをなんとか立派に育てなあかんと、必死でした。もし、2人も亡くなって私1人になっていたら、何もできなかったでしょうね』父は、震災後に建てた自宅の1室を教室にし、学習塾を経営しながら、そのかたわらで料理や洗濯などの家事をして私と弟を育ててくれました。そのおかげで、今の私があります。本当に感謝しています。年子の弟の陽平は、好きな漫画のことを語り合ったり、カードゲームをして遊んだりできる、唯一無二の親友のような存在です。陽平のおかげで、震災後も毎日を楽しく過ごせました。ありがとう。
私は『自分の周りにいる人の大切さ』や『日常のありがたさ』など、震災から得た教訓をより多くの方々に伝えたいと思い、『語り部KOBE1995』に加入し、現在はグループの代表として語り部活動を続けています。震災から30年が経ち、神戸に住む半数以上の方が『震災を知らない世代』になったと聞きます。これからますます震災の記憶が風化し、いざ大地震が起こったときにその教訓が生かされなくなるおそれがあります。それを防ぐためには、震災遺構や震災の記録を残して後世に引き継ぐこととともに、災害を受けた人々の気持ちや教訓を語り継ぐことも大切だと思います。
私の母と弟の翔人はタンスの下敷きになって亡くなりました。家具の固定をしっかりしていれば、命は助かったかもしれません。また、震災後すぐは食べ物や飲み物がなく、何も食べられない日がありました。避難リュックを用意していれば困らずに済んだかもしれません。今年の灯籠の文字『よりそう』のように、被災者の気持ちに寄り添い、話を聞くことで、災害を『自分事として捉える』こと。そして『今自分にできることは何か』を考える、 つまりは『防災・減災のスタートラインに立つ』ということが大切だと思います。ここ神戸に住む震災を知らない世代だけでなく、より多くの方々に防災・減災のスタートラインに立ってもらえるよう、これからも震災から得た教訓を語り継いでいきます」
長谷川さんは、あいさつのあと、犠牲になった人の追悼や復興を願い平成12年からともされている「希望の灯り」の前に設けられた献花台に花を手向け、祈りをささげていました。
花を手向けたあと長谷川さんは「震災から30年たったが、30年は特別な年ではなく、母と弟を失ったつらさや悲しみは薄れることはない。一方で、震災の記憶や教訓は薄れていくおそれがある。語り部活動の中で被災した人の気持ちに寄り添い引き継いでいくことで、震災を経験していない人も『災害に遭うかもしれない』と感じてもらうきっかけになり、防災・減災のスタートラインになっていくと思うので、語り継ぐことを大切にしていきたい」と話していました。
5:46 神戸 長田区 倒壊した自宅の跡を訪れ 祈りささげる
神戸市長田区は阪神・淡路大震災で多くの建物が倒壊した上、火災も発生して大きな被害を受けました。
当時小学1年生だった柴田大輔さん(37)は、アパートで両親と2人の弟の家族5人で暮らしていました。
地震でアパートが倒壊して家族全員が閉じ込められ、柴田さんと両親は救助されましたが、弟の宏亮さん(当時3歳)と知幸さん(当時1歳)は助け出すことができませんでした。
柴田さんは弟たちの死を受け入れられず、学校に通えなくなった時期もありましたが、学生ボランティアの支援で立ち直ることができたということです。
その経験から「今度は自分が誰かを守りたい」と考えて消防団に入り、震災の経験を伝える語り部としても活動してきました。
震災から30年となった17日、柴田さんは両親と妻とともに現在は駐車場になっている自宅の跡地を訪れ、午前5時46分に静かに祈りをささげていました。
柴田さんは「震災が起きて30年がたちますが、思いは変わらず、1月17日は自分にとって忘れられない出来事です。家族で頑張っていると弟2人に伝えたいです」と話していました。
5:46 神戸 長田区のパン販売店 仕事の手を止め黙とう
神戸市長田区の國本善之さん(62)が営むパンの販売店は、1995年1月17日、地震で発生した大規模な火災で全焼しました。
近所にパンを配達している途中で地震にあった國本さんはすぐに店に戻りましたが、火の勢いが増してきたため、近くの公園に避難せざるをえませんでした。
國本さんは同じように着の身着のままで逃げてきた人たちに、店から持ち出したパンを配って、地域の人たちを励ましました。
親の代から続く店を絶やしたくないと、地震から4年後、同じ商店街の中に店を再建しました。
17日は震災の当日と同じようにパンを焼いたりサンドイッチを作ったりして店頭に並べ、午前5時半に店を開けると、近所の人たちが早速パンを買いに来ていました。
そして地震が発生した時刻の午前5時46分になると、國本さんや従業員は仕事の手を止めて黙とうし、亡くなった人たちに祈りをささげました。
國本さんは「地震から30年たっても当時の光景をたくさん思い出して、あの時、人を助けることができたのではないかと思うことがあります。今でも店を続けていられるのは地域の人たちによる支えが大きいと思いながら、きょうもパンを焼きました」と話していました。
5:46 震源に近い兵庫 淡路島 亡くなった人たちを悼む
阪神・淡路大震災の地震の震源に近い、兵庫県の淡路島では、遺族や地元の人たちが亡くなった人たちを悼みました。
地表に現れた野島断層の一部が保存される淡路市の「北淡震災記念公園」では、震災で亡くなった人たちの慰霊碑が建てられています。
17日朝は遺族や地元の人などおよそ250人が集まり、淡路島などで亡くなった63人と同じ数の竹の灯籠を園内の池に浮かべました。
そして、地震が発生した午前5時46分に合わせて慰霊碑の前で黙とうが行われました。
集まった人たち全員で、亡くなった人への追悼と復興への思いを込めて「アメイジング・グレイス」を合唱しました。
最後に遺族が慰霊碑に花を手向け、静かに手を合わせました。
地震で自宅が半壊した兵庫県淡路市の70代の女性は「避難生活で地域のみんなと助け合ったことを思い出しました。いま生きていることに感謝しながら、当時の経験を語り継がないといけないと改めて感じました」と話していました。
公園を管理し語り部活動を続ける米山正幸総支配人は「日本各地で起きる地震や自然災害で多くの命が失われています。未来の命を守っていけるように、これからも防災・減災に取り組んでいきたいです」と話していました。
5:46 神戸 高台の公園から追悼のトランペット演奏
神戸市中央区の高台にある「諏訪山公園」では、神奈川県川崎市に住むトランペット奏者、松平晃さん(82)が1999年から毎年、演奏を続けています。
松平さんは地震が発生した午前5時46分にあわせて、童謡の「どこかで春が」を演奏しました。
阪神・淡路大震災の犠牲者を追悼するとともに、東日本大震災や能登半島地震などの被災地にも思いを寄せ、厳しい寒さを乗り越えて暖かい春が早く訪れてほしいという願いを込めたということです。
松平さんは30年前、震災が起きた前日の1月16日に神戸市内で演奏会を開き、その日のうちに神奈川県の自宅に戻ったため被害には遭いませんでしたが、追悼の思いを込めたトランペットを毎年1月17日に奏で続けています。
松平さんは18日も兵庫県尼崎市で開かれる追悼コンサートで演奏するということで「神戸の人たちが安らげるよう犠牲者を追悼する演奏をできるかぎり続けていきたい」と話していました。
5:46 神戸 追悼のつどいに集まった人たちの思い
東遊園地で開かれている追悼のつどいに参加した大阪市の53歳の女性は、30年前、1人暮らしをしていた神戸市長田区のマンションで被災し、災害救助犬に発見されて救出されたということです。
女性は「家具の間で圧迫されている状態だったが、なんとか生き残ることができた。自分が生かされている意味を考えるためここに来た。生きたかった人たちの分をきちんと生きていきたい」と話していました。
一緒に来ていた52歳の夫は西宮市で被災したということで「なぜ自分が生き残ったか、改めて考える場として訪れた。震災経験者が少なくなっているが、こうしたつらい事実があったことがしっかりと伝わっていってほしい」と話していました。
兵庫県高砂市の52歳の男性は「地震による火災で、神戸にいた母親と妹を亡くし、毎年、銘板の前に祈りに来ていて、いつも『申し訳なかった』と悔やんでいます。私は震災当時から高砂にいて被害はありませんでしたが、2人が亡くなったと連絡が来たときの悲しみと衝撃は今でも覚えています。街で2人に似た人を見かけると、今でもどこかで生きているのではないかと思ってしまいます。何年たっても区切りはありません」と話していました。
神戸市東灘区の76歳の女性は「近所で1人暮らしをしていた母親が住宅の下敷きになって亡くなり、母の髪を切って、生きた証しとしてきょうだい3人で分けました。つどいには毎年来ていて、母に近況を報告していますが、この1年、大切な人との別れが続いたこともあって、今回は『つらいを通り越して、苦しい』と伝えました。大切な人との別れのない世界にいたいと思いました」と話していました。
神戸市長田区の83歳の女性は、震災で夫を亡くしたことを振り返り「夫は子どもの様子を確認するため2階にあがろうとした際に、落ちてきた天井の下敷きになり亡くなりました。震災から30年がたちますが、この日が近づくとこみ上げてくるものがあり、知らない間に涙が出てきます。若い人たちには震災の記憶を継承していってほしいと願っています」と話していました。
震災で当時59歳だった母親を亡くした女性は「震災後に生まれた娘と一緒に来ました。母に会わせたかったなという気持ちもあります。みんな元気で暮らしてるので、母には安心してほしいです」と話していました。
灯籠を見つめながら涙を流していた神戸市須磨区の67歳の男性は「一瞬でたくさんの人が亡くなられて本当に悔しいです。当時、壊れた建物の一部を持ち上げようとしていた人からそのための道具を貸してほしいと頼まれたのに、貸さなかったことを、今もとても後悔しています。去年の能登半島地震ではボランティア活動に参加して、助け合うことの大切さを改めて感じています」と話していました。
3歳の娘や妻と参加した大阪市の48歳の男性は、当時、神戸市内の自宅で被災したということです。
男性は「黙とうの前の時計の音を聞くと、あの時のことが鮮明に浮かんできます。娘は生まれてから毎年一緒につどいに来ていて、少しずつ震災のことをわかってきています。震災があったことや、つらいことがたくさんあった中でも人に助けられて思いやりやつながりを感じたことを、子どもたちにも伝えていきたい」と話していました。
兵庫県宝塚市の65歳の男性は「地震が起きた当時はインフルエンザにかかり、自宅ではふだんと違う部屋で休んでいました。いつも寝ている場所には大きなタンスが倒れていて、偶然にも命が助かりました。当時は兵庫県の職員で、震災の発生後は防災の仕事にも携わり、定年した今も防災に関するアドバイザーとして支援活動を続けています。ひとりでも多くの自治体職員に経験と教訓を伝えることで、この助かった命を役立てたいと思っています」と話していました。
家族で参加した神戸市須磨区の41歳の女性は「震災で祖母の妹を亡くし、30年の節目でもあるので来ました。今回は、震災の授業を受けた娘が『一度行きたい』と言うので、初めて一緒に訪れました」と話していました。
女性の9歳の娘は「学校では地震でガスや水が出なくなったことなどを学び、避難バッグなどを早めに用意しようと思いました。悲しい出来事なので、二度と起きてほしくないです」と話していました。
神戸市の29歳の女性は「震災が起きた2か月後に生まれました。私の命を守ってくれた両親に感謝するとともに、これからも風化させないという思いを込めて灯籠に火をともしました。震災を経験していませんが、人生の節目はいつも震災の節目でもあり、5年後や10年後にも来たいです」と話していました。
兵庫県姫路市で震災を経験したという北海道苫小牧市の40代の男性は「当時、アマチュア無線をしていて、警察署の2階が倒壊したという情報が入り、母親と『まさか』と話していました。神戸の状況を知っていたのに、ニュースを見ているだけで何もできませんでした。そこから防災について学んで、子どもたちに伝える活動をしていて、きょう、母校の高校で特別授業をします。災害は必ず来るので、私のように後悔しないためにも備えをするよう伝えたいです」と話していました。
神戸市東灘区の60代の男性は「縁があって20年前から神戸市に住み始めました。市民として、このつどいがどのような意味をもつのか確認したいと思い、参加しました。震災から30年がたちましたが、参加されている皆さんの思いを感じ、改めてこのつどいが継続される重要性を感じることができました」と話していました。
18歳の娘と参加した兵庫県西宮市の40代の男性は、当時住んでいた大阪市で震災を経験しました。
男性は「娘から『行ってみたい』と言われて、学校に行く前に早起きして来ました。30年という節目はきょうしかないので、娘にこの様子を見て記憶に残してもらいたい」と話していました。
男性の娘は「つどいの様子は小さいころからテレビで見てきましたが、実際に参加して感動しました。地震は起きてほしくないけれど、いざというときのために備えようと改めて思いました」と話していました。
追悼のつどいでボランティアをしているという神戸市中央区の64歳の女性は「例年は1人で参加していますが、ことしは30年の節目なので、単身赴任の夫と一緒に参加しました。ここまで復興してこられたのがすごいです。ボランティアも高齢化してきているので、若い人たちに継承してもらえたらと思います」と話していました。
兵庫県西宮市の21歳の男性は、震災で祖父母と両親が住んでいた住宅が倒壊し、仮設住宅で1か月間暮らしたという話を聞いて育ったということです。
男性は「自分は震災を経験していませんが、当時のことは親から聞いていて、私もつないでいかないといけないと思っています。30年の節目で初めて追悼行事に参加しましたが、若い世代が少ないことが印象的でした。自分たちに何ができるかを考え、教訓を伝えていきたいです」と話していました。
埼玉県川越市から参加した50代の男性は、震災のあと神戸市でボランティア活動にたずさわったということです。
男性は「まちはずいぶんきれいになったと思います。震災当時のことは忘れないようにしなければならないと思う」と話していました。
そして、ろうそくに火をともしながら「この光が未来につながってほしい」と話していました。
10歳と8歳の娘2人と参加した神戸市灘区の48歳の男性は、当時高校3年生で、兵庫県西宮市で被災したということです。
男性は「子どもたちに震災について伝えることが大切だと思い、毎年子どもと来ています。アルバイト先で震災に遭って、崩れた隣の酒蔵から人を助け出しました。ことしはなぜかいつもより当時のことを思い出します。当時大人だった人も子どもだった人も、それぞれが頑張って過ごした30年だと思います。たくさんの人が訪れてくれるような街になったので、今は『みんな頑張ったよ』という気持ちがあります」と話していました。
追悼のつどいには、能登半島地震で被害を受けた石川県七尾市の高校に通う2年生の男子生徒が訪れ、「神戸は多くの人が協力して復興していることを感じました。七尾にはまだ被害のあとが残っていますが、自分たち若い世代が復興に向けた希望を持って頑張りたいです」と話していました。
神戸市によりますと、東遊園地で行われている追悼のつどいに17日に訪れた人は午前7時の時点でおよそ1万1000人で、去年に比べて5000人多くなっています。
これまでに午前7時の時点で訪れた人が最も多かったのは、震災から20年となった2015年の1万4000人です。
5:46 兵庫 明石 被害受けた大時計を停止 “考えるきっかけに”
日本標準時の基準となる東経135度の子午線の上に建てられている、兵庫県明石市の明石市立天文科学館は、阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、塔の上に設置された直径6メートルほどの大時計が地震発生時刻の午前5時46分で停止しました。
科学館では、当時の被害を思い起こし、今後の防災について考えるきっかけにしようと、17日は午前5時46分から12時間にわたって大時計を止めることにしています。
井上毅館長が「地震発生時刻です。時計を停止してください」と指示をすると、職員が大時計のスイッチを切りました。
そして、職員たちが震災で亡くなった人たちを悼んで1分間の黙とうを行いました。
井上館長は「震災で科学館は深刻な被害を受けて、再び公開できるまでには3年余りかかりました。大きな災害が相次ぐ中ですが、必ず復興できると信じて、大時計を見上げてほしい」と話していました。
16日17:46 神戸で追悼のつどい 「よりそう」の文字に灯籠並べ
東遊園地では、阪神・淡路大震災から30年となる17日を前に、「1.17」と「よりそう」という文字の形に灯籠が並べられました。
16日午後5時ごろからは、震災で亡くなった人の追悼や復興への願いを込めて、公園でともされ続けている「希望の灯り」から火が分けられ、集まった人たちが灯籠に一つ一つ火をともしていきました。
そして、地震が発生した時刻の半日前にあたる午後5時46分に合わせて、黙とうが行われました。
灯籠で形づくった「よりそう」ということばには、震災を経験した人が減っている中でも被災者を忘れず寄り添い続けることや、東日本大震災や能登半島地震などの被災地に寄り添い、力を合わせて一歩一歩進んでいきたいという思いが込められているということです。
小学2年生と5歳の娘とともに訪れた神戸市の40代の女性は「娘が小学校で震災のことを学ぶようになったので、しっかりと知ってほしいと思い、連れてきました。子どもたちには神戸の街で起きたことを知ってもらい、伝え続けていってほしい」と話していました。
つどいの実行委員長の藤本真一さんは「ことしも皆さんに集まってもらい、震災について考えてもらえる場所を準備できて、ほっとしている。震災の記憶を今後も10年、20年と伝え続けられる場になるよう取り組んでいきたい」と話していました。
16日17:46 兵庫 宝塚 「生」の文字のモニュメントを照らし追悼
兵庫県宝塚市では、市内を流れる川沿いの遊歩道に設置されている、漢字の「生」という文字をかたどったモニュメントを、ろうそくのあかりで照らし、犠牲になった人たちを追悼しました。
この催しは、震災のことを思い出し、命の大切さや生きることの意味について考えてもらおうと、宝塚市の市民団体が行ったもので、地元の人たちなどおよそ330人が参加しました。
地震が起きた半日前にあたる16日午後5時46分に、集まった人たちが静かに黙とうをささげました。
このあと、震災当時、宝塚歌劇団に在籍し、自身も被災した、歌手の絵莉千晶さんが、亡くなった人を悼み「アメイジング・グレイス」を独唱しました。
主催した市民団体の代表で現代美術家の大野良平さんは「震災の記憶を風化させてはならないという思いがそれぞれにあると思います。この場所や催しが世代を超えて思いを共有できる場になってほしい」と話していました。
16日13:00すぎ 「慰霊と復興のモニュメント」に新たに2人の名前
神戸市の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」には、阪神・淡路大震災の犠牲者や、その後亡くなった被災者、それに復興に携わった人たちの名前が刻まれていて、遺族などからの要望を受けて新たに名前が加えられています。
16日は新たに2人の名前が加えられました。
兵庫県尼崎市の松久保喜代子さんは、自宅が倒壊し、娘の愛香さんを亡くしました。
亡くなった当時20歳だった愛香さんは、放射線技師を目指して短大に通い、熱心に勉強していたということで、喜代子さんは娘が生きた証しとして名前を残したいと考えたということです。
大阪市の清水芳春さんは、姉の豊子さんを45歳で亡くしました。
兵庫県芦屋市に住んでいた豊子さんは、一緒に住んでいた高齢の母親を避難させたあと、被災した自宅の片付けなどに追われ、体調を崩し、震災からおよそ1か月後に亡くなったということです。
芳春さんは「亡くなった皆さんと一緒に名前を刻んでもらい、姉も無念な思いを昇華できたのではないか。にこやかな姉にもう一度会いたいです」と話していました。
モニュメントを管理するNPOによりますと、刻まれた名前は5070人になったということです。
【映像で振り返る】 追悼のつどい 祈りの軌跡
「大切な人を失った悲しみを決して忘れないために…」
「震災の教訓を後世に伝えていくために…」
各地では、地震発生の翌年から追悼の催しが行われてきました。
これまでの祈りの軌跡を映像で振り返ります。
(動画は2分17秒 ※データ放送では動画はご覧になれません)
30年前 この時間に何が
30年前の1月17日に何があったのか。映像でまとめました。
(動画は1分44秒 地震の映像が流れます)
(※データ放送では動画はご覧になれません)
【史上初「震度7」の揺れ】
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、兵庫県の淡路島北部を震源地とする地震が発生。震源の深さは16キロで、地震の規模を示すマグニチュードは7.3でした。
大阪府北西部から淡路島にかけて位置する活断層の一部がずれ動いたことで発生した大地震は、近畿地方を中心に東北地方から九州地方まで広い範囲で揺れを記録しました。
地震後の気象庁は現地調査で、当初震度6とされた地域のうち、淡路島のほか、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市のそれぞれ一部地域で震度7の揺れに相当することが判明したと発表しました。国内で史上初めてとなる「震度7」でした。
【死者6434人 住宅被害は約63万棟】
都市部で起きた直下型地震は甚大な被害をもたらしました。
6434人が犠牲になりました。亡くなった人のほとんどが家屋の倒壊や家具などの転倒によるものでした。
また、時間がたってから疲労やストレスで亡くなる人も多くいました。
全半壊など被害を受けた住宅はおよそ63万棟にのぼります。
【大規模な火災 ライフラインも被害】
住宅が密集する神戸市長田区では大規模な火災が起きました。
市内各地で火災が同時に発生する中で、地震によって水道管が被害を受けたことなどから放水用の水の確保が困難となり、延焼が拡大する一因になりました。
道路や鉄道といった交通網は断絶され、ガスや電気、電話といったライフラインも被害を受けました。
【仮設住宅と災害復興住宅の建設 「孤独死」の問題も】
地震直後から各地で建設が始まった仮設住宅は、4万8300戸が建設されました。
ピーク時の1995年11月には4万6617戸の入居がありました。
2000年1月14日ですべて退去し、同年3月末までに解体撤去が完了しました。
そして、自力で住宅を確保するのが難しい人のため、災害復興住宅と呼ばれる公営住宅が建てられました。
こうした中、誰にもみとられずに死亡した、いわゆる「孤独死」が相次ぎました。
【1995年は「ボランティア元年」】
阪神・淡路大震災では全国からボランティアが駆けつけました。
地震発生から1年間でのべ約137万人のボランティアが活動し、食料や物資の配給をはじめ、避難所での炊き出しや仮設住宅での見守りなどの活動にあたりました。
地震の起きた1995年は、災害ボランティアの重要性が広く認識され、「ボランティア元年」と言われています。