両陛下は60年前の昭和34年4月10日に結婚し、10日で60回目の結婚記念日を迎えられました。
皇居 宮殿「松の間」では、午前11時から両陛下が皇族方の祝賀を受けられました。
皇太子さまが雅子さまとともに天皇陛下の前に進み出て、「ご結婚60年心からお祝い申し上げます」と述べられると、天皇陛下が「どうもありがとう」と応えられました。
続いて皇太子ご夫妻は皇后さまにお祝いを述べられ、秋篠宮ご夫妻などの皇族方も、天皇陛下と皇后さまにお祝いを述べられました。
午前11時45分からは、安倍総理大臣と衆参両院の議長、最高裁判所長官が、それぞれ夫妻で両陛下にお祝いを述べました。
両陛下は10日夜、お住まいの御所で、皇太子ご夫妻と秋篠宮ご夫妻、長女の黒田清子さん夫妻と、お祝いの夕食を共にされることになっています。
両陛下60年の歩み
天皇陛下は大学生活を終えた翌年の昭和32年8月に軽井沢のテニスコートで初めて皇后さまと出会われました。
お二人は出場したテニストーナメントで対戦され、2時間近くにわたる熱戦の末、皇后さまのペアが勝ち、この試合が交際のきっかけとなりました。
そして60年前の10日、昭和34年4月10日に結婚されました。
天皇陛下は25歳、皇后さまは24歳でした。
一般の家庭から皇太子妃が選ばれたのは初めてで、祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど、多くの国民から祝福を受けられました。
お二人は、親子が別々に暮らすという天皇家の慣習にとらわれず、3人のお子さまを手元で育てるなど、時代の流れに沿った子育てを実践し、新たな皇室像を示されました。
昭和天皇の崩御に伴い、天皇陛下は55歳で今の憲法のもと初めて「象徴天皇」として即位されました。
皇后さまは54歳で皇后となられました。
ともに戦争が続く中で幼少期を過ごした天皇陛下と皇后さまは、一貫して戦争の歴史と向き合われてきました。
戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出て、被爆地広島と長崎、そして沖縄を訪ねられました。
先の大戦で激しい地上戦が行われ、20万人以上が犠牲になった沖縄への訪問は、合わせて11回に及びます。
戦後60年には太平洋の激戦地サイパンを訪問。
追い詰められた日本人が身を投げた断崖で黙とうをささげられました。
天皇陛下の強い希望で実現した異例の外国訪問でした。
そして戦後70年には悲願だったパラオのペリリュー島での慰霊も果たされました。
両陛下はまた、全国各地の福祉施設を訪れるなどして社会で弱い立場にある人たちを思いやられてきました。
障害者スポーツにも強い関心を持ち、「全国身体障害者スポーツ大会」が開かれるきっかけをつくるとともに、平成に入って皇太子ご夫妻に引き継ぐまで、大会に足を運んで選手らを励まされました。
長野パラリンピックでは、皇后さまが選手の健闘をたたえるウエーブに参加されました。
大きな災害が相次いだ平成の時代。
両陛下は被災地に心を寄せ続けられました。
始まりは平成3年。
雲仙普賢岳の噴火災害で43人が犠牲になった長崎県島原市を訪れ、避難所の板張りの床にひざをついて被災者にことばをかけられました。
平成7年の阪神・淡路大震災では、発生から2週間後、余震の続く被災地に足を運び、被災者を見舞われました。
大規模な火災の焼け跡を訪ねられた際、皇后さまはお住まいの庭で摘んだスイセンの花を手向けられ、その後、スイセンは復興のシンボルとなりました。
平成23年の東日本大震災では、天皇陛下が異例のビデオメッセージで国民に語りかけるとともに、皇后さまと7週連続で東北3県などを回り、その後もたびたび被災地を訪ねられました。
即位以来、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことを大切に考えられてきた天皇陛下。
皇后さまとともに、即位後15年で全国47のすべての都道府県への訪問を果たし、おととしには2巡目を終えられました。
また、海外からの賓客と会い晩さん会などでもてなしたほか、平成4年に歴代の天皇・皇后として初めて中国を訪れるなど、即位以来36か国を訪ねるなどして国際親善にも尽くされました。
60年間、ともに支え合いながら歩まれてきた両陛下。
お二人の日々は今月30日に1つの区切りを迎えます。
両陛下 互いへのことば
天皇皇后両陛下は記者会見などで互いに寄せる思いを語られてきました。
お二人の婚約が決まった昭和33年11月には皇后さまが両親と記者会見に臨み、天皇陛下の印象について「とても清潔なお方だという印象を受けたのを覚えております。とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力をお感じいたしました」と話されました。
結婚25年の銀婚にあたって開かれた昭和59年の記者会見では、天皇陛下が皇后さまについて「長い年月にわたって私のつとめを大切にして来ましたし、両陛下や私につながる人々のことを大切にし、また、子どもたちも明るく育ってきています。点をつけるということは難しいけれども、まあ、努力賞というようなことにしようかと思っています」と述べられました。
これに対し皇后さまは「殿下のお導きがなかったら、本当に私は何もできませんでしたし、また、東宮様の御指示とお手本がなかったらどうして子どもを育てていいかも分かりませんでした。私ももし差し上げるとしたらお点ではなくて感謝状を」と返されました。
結婚50年にあたっての平成21年の記者会見では、天皇陛下が「結婚50年に当たって贈るとすれば感謝状です。皇后はこのたびも『努力賞がいい』としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力を嘉しての感謝状です」と話されました。
そのうえで「結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」と語られました。
皇后さまは「50年の道のりは、長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯にとるべき道を求め、指し示してくださいましたので、今日までご一緒に歩いてくることができました。陛下のお時代を共に生きることができたことを心からうれしく思います」と話されました。
そして「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」と述べられました。
去年、天皇として、また皇后として迎えた最後の誕生日でもそれぞれ思いを語られました。
皇后さまは去年10月の誕生日にあたっての文書回答で「義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた『象徴』のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています」とつづられました。
そして天皇陛下の退位後について「陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています」と記されました。
一方、天皇陛下は、去年12月の誕生日を前にした記者会見で「結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子どもを育てました」と述べられました。
そして声を震わせながら「みずからも国民の一人であった皇后が私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」と話されました。
ピアニスト 舘野泉さん「深く結ばれたお2人」
脳いっ血で倒れたあと左手だけで演奏活動を続けている国際的なピアニスト、舘野泉さんは天皇皇后両陛下と長年交流があり、舘野さんのコンサートに両陛下が足を運ばれたこともありました。
舘野さんは平成5年、皇后さまが突然体調を崩してことばが不自由な状態になられていた時、両陛下の当時のお住まいの赤坂御所に招かれてピアノを演奏しました。
舘野さんは当時を振り返り「何曲か演奏してこれで失礼しますと言ったら、天皇陛下が『もうちょっとお弾きになりませんか』とおっしゃって、また何曲か弾いたら『もっと聞きたいのです』と話されてまた演奏しました。天皇陛下が、体調を崩していた皇后さまに音楽をたくさん聴かせたいと、気遣われたのだと思います」と話しました。
このとき両陛下は30年以上にわたって過ごした赤坂御所を離れ、皇居の新しいお住まいに移られる日を間近に控えていました。
舘野さんは「食事のあとお茶をいただいている時、天皇陛下が私に『この赤坂御所で私たちが最後にお迎えするお客様です』と話され、皇后さまが天皇陛下の手にそっと手を重ねられたのがとても心に残っています。これまでの日々を思い返されたのだと思います。お二人が心の底で深く結ばれ、お互いを大事に思っていらっしゃることが胸の奥深くまで伝わってきました」と話しました。
両陛下の60回目の結婚記念日にあたり舘野さんは「60年間、ご公務もある中で大変お忙しい生活を送られてきたんだろうと思います。天皇陛下の退位後はお二人での生活をゆっくりと楽しんでいただきたいです」と話していました。
声楽家 鮫島有美子さん「本当に光栄なこと」
天皇皇后両陛下と20年余り前から親交がある声楽家の鮫島有美子さんは、ことし2月に開かれた天皇陛下の在位30年を記念する式典で、皇后さまが作曲し、幼い皇太子さまに口ずさまれた子守歌の「おもひ子」を歌いました。
鮫島さんは当時の心境について「両陛下に聞いていただく機会をいただいたのが本当に光栄なことで、喜んでいただけたらという思いでいっぱいでした」と話しました。
そのうえで「両陛下が退場されるときに『きょうは本当にありがとう』というおことばをいただき、ものすごく感激しました」と振り返りました。
式典では「歌声の響」という歌も披露されました。
「歌声の響」は天皇陛下が詠まれた沖縄古来の「琉歌」に皇后さまが曲を付けられたものです。
この歌について鮫島さんは「1つの作品をお二人でお作りになられたということは、お互いの価値観を理解し合っていなければできないことで、どなたが聞いてもすごく心を打たれるのは、お二人の真摯なお心が詰まっているからだと思います」と述べました。
そして「音楽という共通の趣味だけでなく、お二人が同じ方向を同じお気持ちで60年間ずっと見つめていらっしゃったことは、本当にすばらしいことだと思います」と話しました。
式典では、天皇陛下がおことばの一部を読み間違えられた際に、皇后さまがすぐに気付いて天皇陛下に伝えられる場面がありました。
これについて鮫島さんは「皇后さまは、天皇陛下のおことばをひと言ひと言ご存じでいらっしゃったと思います。とても自然な対応で、お二人の築き上げられた60年間の信頼のあかしではないかと思い、胸が温かくなりました。天皇陛下がおことばを読まれましたが、そこに皇后さまのお気持ちも入っていると感じて聞いていました」と話していました。