「第五福竜丸」は、いまから66年前の昭和29年3月、太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験に巻き込まれ、23人の乗組員全員が「死の灰」を浴びて被ばくし、半年後に1人が亡くなりました。
いまは、東京 江東区にある都立の展示館で保存・公開されていますが、ふだんは船内は見ることができません。
国内に現存する唯一の西洋型の木造船として、このほど、日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されたことから、22日、特別に取材が許可されました。
被ばくしたあと第五福竜丸は、水産大学の練習船になったり、大規模な改修が行われたりしましたが、基本的な構造は変わっていません。
骨組みには、黒ずんだり、傷んだりした被ばく当時の木材が残されていて、悲惨な歴史をいまに伝えています。
「第五福竜丸展示館」の安田和也主任学芸員は「第五福竜丸は、被ばくや核兵器についてだけでなく、船の歴史を知るための資料としても貴重であることを多くの人に知ってもらいたい」と話していました。
「第五福竜丸」歩んだ歴史
「第五福竜丸」は、昭和22年に建造され、戦後の食糧難の時代、かつおや、まぐろを取るための船として使われました。
そして、昭和29年3月1日、日本からおよそ4500キロ離れた太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁周辺で、操業中にアメリカの水爆実験に巻き込まれました。
これをきっかけに、日本では原水爆禁止運動が高まり、広島と長崎に投下された原爆の被爆者の全国組織、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の結成につながりました。
一方、「第五福竜丸」は政府が買い上げ、放射線量が低下したあと、当時の東京水産大学の練習船として使用されました。
そして昭和42年に廃船になり、東京 江東区の、ごみの埋め立て処分場に放置されていましたが、原水爆禁止運動のシンボルとして保存を求める声があがり、昭和51年、東京都が展示館を整備して保存・公開しています。
昭和60年には、腐食が進んだ木材を取り替えるなどの大規模な改修が行われましたが、基本的な構造は建造当時のままで「第五福竜丸」は、当時の西洋型の木造船の姿を伝える意味でも、貴重な船となっています。