きょうの料理 アントニオ猪木のジャンバラヤ
そのあと、同時に入門したジャイアント馬場さんとタッグを組み人気を集め、1972年には「新日本プロレス」を立ち上げて、プロレス界をけん引しました。
また、1976年には当時のボクシングの世界ヘビー級チャンピオンモハメド・アリさんと対戦し「世紀の一戦」と呼ばれて大きな注目を集めました。
その後、2013年の参議院選挙では当時の日本維新の会から立候補して2回目の当選を果たしました。 参議院議員として北朝鮮を訪問するなど、独自の人脈を生かした活動を続けてきました。 一方、プロレスラーとしては1998年に現役を引退しましたがその後も格闘技大会のプロデューサーを務めるなど格闘技の発展に貢献してきました。 所属事務所によりますと、猪木さんは1日朝、心不全のため、自宅で亡くなったということです。79歳でした。
力道山の門下生としてプロ野球から転向したジャイアント馬場さんとともに、看板選手として活躍し、1972年には新日本プロレスを旗揚げしました。 同じ年に全日本プロレスを旗揚げした馬場さんとともにプロレス人気を高めました。 プロレスラーとしては「卍固め」や「延髄斬り」など多様な必殺技を繰り出して数々のタイトルを獲得するとともに、藤波辰爾さんや長州力さん、それに初代タイガーマスクの佐山聡さんなど数々のトップ選手を育てました。
1期目の参議院議員だった1990年12月には、湾岸戦争の危機に直面していたイラクでプロレスやコンサートなどのイベントを開き、現地で人質となっていた日本人の解放に貢献しました。 さらに1995年4月には北朝鮮でもプロレスのイベントを開き、2日間でおよそ38万人の観客を動員したとされています。 活躍はリングの中だけにとどまりません。 猪木さんの代名詞ともいえる「闘魂ビンタ」。 平成のはじめごろに予備校で講演した際、予備校生のパンチを腹に受けて反射的に見舞ったのが始まりとされています。 その後は“縁起物”としてさまざまな場面でビンタを放ち、プロレスファン以外にも広くその名を知らしめました。 そして1998年に現役を引退してからもプロレスや格闘技のイベントにたびたび登場して存在感を示したほか、バラエティー番組などでも人気を集めました。
日本のプロレス・格闘技界を長年にわたって引っ張ってきた猪木さん。 「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」をモットーにしてきた「燃える闘魂」の心は多くの人に知られてきました。
藤波さんはおよそ1か月前、猪木さんの自宅に見舞いに行ったということで「『元気ですかー!』と出迎えてもらい、帰るときも『頑張れー!』と送り出してもらってこちらが勇気をもらった。こんな状況になるとはという思いだ」と振り返りました。 またプロレス界への貢献について「プロレスを通じて世間を相手にしていた。鍛え上げられた者どうしで喜怒哀楽をさらけ出すという形を作った。それが生きざまだった」と話しました。 そして「寝ているときもリングシューズを履きトランクスを履いているような気がする人だった。これでやっと休めると思う。『本当にお疲れさまでした』と言いたいがまだ割り切れない」と複雑な心境を明かしました。
このうち参議院議員だった2013年11月にはスポーツ交流の行事に参加するため北朝鮮を訪れ、当時、キム・ジョンウン(金正恩)総書記の側近だったキム・ヨンイル書記と会談し、日朝関係について意見を交わしました。 ただ、日本政府が制裁措置として北朝鮮への渡航自粛を要請していた中で国会の許可を得ないまま訪朝したため、30日間の登院停止の懲罰を受けました。 2014年には、猪木さんが企画した国際プロレス大会が北朝鮮の首都ピョンヤンで開催され、日本やアメリカ、フランスなどからプロレスラーや格闘技の選手およそ20人が参加し、会場となった体育館は1万人を超える観客で満席となりました。
日本のプロレス・格闘技界をけん引
藤波辰爾さん「猪木さんは人生そのもの」
北朝鮮をたびたび訪問 日朝関係改善に意欲示す