細川連立政権樹立の
原動力となった
新党さきがけの
代表や
官房長官などを
務めた、
武村正義氏が
先月28
日、
亡くなりました。88
歳でした。
武村氏は滋賀県出身で、旧自治省に入省後、滋賀県八日市市長や滋賀県知事を経て、昭和61年の衆議院選挙に自民党から立候補して初当選し、連続4回当選しました。
この間、武村氏は、リクルート事件をきっかけに党内の若手議員が結成した「ユートピア政治研究会」の代表を務め、政治改革を目指す若手のリーダー格として頭角をあらわしました。
そして、平成5年6月には、政治改革に対する自民党の取り組みを批判して、10人で自民党を離党し、「新党さきがけ」を結成して、みずから代表に就任しました。
直後の衆議院選挙では、日本新党などとともに、いわゆる「新党ブーム」を起こし、自民党政権に代わる、細川連立政権を樹立する原動力となりました。
武村氏は、細川内閣では官房長官を務め、細川総理大臣の女房役として内閣を支える一方、連立政権の中心的存在の旧新生党の小沢一郎代表幹事と、政権内の主導権争いなどを背景に、対立していきました。
その後、武村氏は、細川総理大臣の「国民福祉税」構想に正面から異を唱えるなど、次第に細川氏との対立も表面化し、羽田内閣の発足にあたって「新党さきがけ」は閣外協力に転じます。
これをきっかけに、武村氏は、同様に連立政権から離脱した旧社会党の村山富市委員長と連携し、自民、社会、さきがけの3党で連立を組み、村山内閣を発足させ、大蔵大臣として政権を支えました。
「新党さきがけ」は、平成8年、中心メンバーだった鳩山由紀夫氏らが離党して旧民主党を結成し、武村氏らの参加を拒んだことから分裂しました。
その後も党勢の回復はできず、平成10年、党名を「さきがけ」に変え、事実上、解党する形となりました。
武村氏自身も、平成12年の衆議院選挙に無所属で立候補しましたが、健康面での不安を抱えて思ったような運動ができず落選し、その後、政界を引退しました。
武村氏は、9月28日、亡くなりました。88歳でした。