国際情勢が緊迫化し、核兵器の脅威が高まる中、被爆地・長崎は「長崎を最後の被爆地に」という願いを国内外に発信する一日となります。
一方、長崎市は、ことしの平和祈念式典で、イスラエルの駐日大使を招待せず、これに対し日本を除くG7各国の駐日大使らが式典への参加見合わせを表明する事態となっています。
鈴木市長は招待しなかった理由について「政治的な理由で招待していないわけではなく、平穏かつ厳粛な雰囲気のもとで式典を円滑に実施したいという理由だ」と説明しています。
長崎に原爆が投下されてから79年となる9日、長崎市の平和公園では、午前10時45分から平和祈念式典が行われ、この1年間に亡くなった被爆者など合わせて3200人の名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められます。
そして、原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に黙とうをささげ、犠牲者を追悼します。
長崎市の鈴木市長は、式典でロシアによるウクライナへの軍事侵攻や緊迫する中東情勢に触れて核兵器の脅威が高まっていることに強い危機感を示します。
そのうえで、核保有国や核の傘のもとにいる国の指導者に向けて、外交による平和的な解決への道を探るよう求めます。
ことしの式典は被爆者や岸田総理大臣のほか、各国の代表などが参加しますが、長崎市はイスラム組織ハマスと戦闘を続けるイスラエルの駐日大使を招待しませんでした。
これをめぐって、G7=主要7か国のうち、日本を除くアメリカやイギリスなど6か国とEU=ヨーロッパ連合の東京に駐在する大使らが連名で懸念を示す書簡を長崎市の鈴木市長に送っていて、駐日大使らが式典への参加見合わせを表明する事態となっています。
国際情勢が緊迫化し、核兵器の脅威が高まる中、9日、長崎は「長崎を最後の被爆地に」という願いを国内外に発信する一日となります。
米国務省報道官「イスラエルの大使招待が重要だと考えた」
長崎原爆の日の平和祈念式典について、アメリカのエマニュエル駐日大使は、イスラエルを式典に招待しなかったのは政治的な決定だとしたうえで、自身も欠席する意向を明らかにしています。
これについてアメリカ国務省のミラー報道官は8日の記者会見で「われわれは、ほかの国々の大使が招待されているのだから、イスラエルの大使も招待されることが重要だと考えた。いかなる国も式典に招待されないことによって特別扱いされるべきではない。それがエマニュエル大使の行動の理由だ」と説明しました。
一方で、ミラー報道官は、エマニュエル大使が6日に広島市で行われた平和記念式典には出席したことに触れて「われわれの立場や日本に対する敬意ははっきりと示されている。それは大使が1つの行事に参加しないということをはるかに超えるものだ」と述べて、原爆の犠牲者の慰霊をめぐるアメリカの立場や日本への敬意に変わりはないという認識を示しました。
平和公園で祈りをささげる人たちは
長崎市の平和公園では9日の朝早くから平和祈念像の前で祈りをささげる人たちの姿がみられました。
原爆で祖父母とおじを亡くし、母も被爆した諫早市に住む被爆2世の73歳男性は「みんな仲よく、平和な世の中になってほしいと思う。母は高齢で入院していて、祈りに来ることができない。被爆2世として伝えていかなければならないことはあると思うが、限界を感じている。いまだにウクライナなどでも争いが起きて多くの人が亡くなっているし、人類は反省がないのかなと思う。アメリカやイギリスの大使は今回長崎に来ないと聞いたが、本当に平和を願っているなら関係なく来たほうがいいと思う」と話していました。
被爆者の母をことし亡くした長崎市の67歳女性は「母親が亡くなったことを機に初めて来ました。去年、初めて被爆体験を詳しく聞いて、もっと元気な時に聞いておけばよかったなと後悔しています。平和は大事だし、この歳になって子育てをして家庭を持って、普通の日常生活のありがたみがよくわかるようになりました。若い人に母の気持ちを引き継いでいかなければならないと思います」と話していました。
被爆した母親がことし6月に99歳で亡くなった長崎市に住む71歳の男性は「被爆した母親が亡くなったのでお参りにきました。母親は『被爆して亡くなってしまったいとこを背負って歩いたのが忘れられない』と話していました。その悲惨な光景を考えただけでつらいです」と話していました。
また、大阪から嫁いだ男性の妻は「夫のお母さんが戦争について話すときに『みんな仲よくね』とずっと言っていたのを強く覚えています」と話していました。
祖母が広島で被爆したという長崎市の49歳の男性は「今、ウクライナやガザ地区で戦闘が続いていて、平和が一番大事にされるべきなのに軽視されている気がしている。祖母は被爆者で、79年前のこともこれまで聞いてきた。被爆者から学んだ、被爆者から声を聞いた私たちが語り伝えていくことが必要だと思う」と話していました。
母親が入市被爆したという長崎市に住む82歳の女性は「母親や亡くなった主人など家族親戚に被爆した人が多くいるが、ほとんど亡くなってしまった。家族は、被爆体験を話すのを嫌がっていたが、体験を伝えていくには、悲惨な状態を知る人が発信するのが大事だ」と話していました。
長崎市に住む62歳の男性は、ここ10年あまりは毎年、平和公園を訪れて祈りをささげています。
男性は「何年たっても同じことの繰り返しで、いろいろな思惑が交差して核廃絶が難しくなっているのかなと思う。(各国の大使は)損得を抜きにして長崎に来ていただきたい」と話していました。
広島から訪れた62歳の男性は「私たち広島県民の願いも二度と原爆の犠牲者を出さない、『長崎を最後の被爆地に』ということなので、過ちは繰り返しませぬからと誓い、祈りました。三たび原爆が使われるような国際情勢にあるが、来年の被爆80年には世界から核兵器がなくなってほしいと強く願っている」と話していました。
広島県から来たという54歳の女性は「日本の平和をなんとかして世界に広めてほしいです。来年はこの日をみんなで祝福できればいいなと思います」と話していました。
母親が入市被爆したという長崎市に住む82歳の女性は「母親や亡くなった主人など家族親戚に被爆した人が多くいるが、ほとんど亡くなってしまった。家族は、被爆体験を話すのを嫌がっていたが、体験を伝えていくには、悲惨な状態を知る人が発信するのが大事だ」と話していました。
爆心地公園で手を合わせる人たちは
長崎市の爆心地公園では午前5時すぎから手を合わせる人の姿が見られました。
4歳のとき、爆心地からおよそ3.5キロの地点で被爆した市内に住む83歳の男性は「被爆者の1人として手を合わせに来た。一家6人は助かったが、山の上に落下傘のようなものが落ちてその次はもう吹き飛ばされていた」と振り返りました。
そのうえで「絶対に戦争はだめだと訴えたい。生き残っている被爆者としてなんとか伝えていかなければならないと思っている」と話していました。
母親が被爆したという時津町に住む被爆2世の75歳の女性は「20年以上この朝の時間に来ている。母が被爆して当時、生まれていた子ども3人が全員亡くなった。その後、私が生まれて元気に育ててもらったが、2歳上の姉は病弱で、母からは戦後に髪が抜けてつらくて大変だったと聞いている」と話していました。
そのうえで「被爆者と一緒に活動しているが、世界はなかなか核廃絶の方向に向かずもどかしい思いだ。全世界の人に長崎の惨状を自身の目で見てほしい」と話していました。
広島県に住む62歳の男性は「広島に住む私としては長崎を最後の被爆地にしたいという思いが強いです。世界各地で戦争が起きて核兵器使用も辞さないという指導者もいる中で、きょうは改めて安らかにお眠りください、過ちは繰り返しませぬからという思いを伝えました」とと話していました。
教会のミサでも原爆犠牲者に祈りささげる
長崎市のカトリック教会浦上天主堂では午前6時からミサが行われ、参列者が原爆の犠牲者に祈りをささげました。
息子と訪れた43歳の長崎市の女性は「被爆した祖母は、身近な人が亡くなってつらい思いをしていて、『思い出すだけでもつらい』と話していました。もう二度とあってはいけないことだと思います」と話していました。
また10歳の息子は「当時の被害は甚大でよくわからないところもありますが、原爆はいけないと思います。僕たちにできることはないかもしれないけれど、今はお祈りを頑張るしかないと思います」と話していました。
当時4歳で爆心地から2.5キロ離れた場所で被爆した83歳の女性は「目をさすような光だけ覚えています。夫の家族は9人亡くなりました。永遠の安息を願っていつも祈っています。若い人たちにも原爆の悲惨さをしっかり受け止めて考えてもらいたいです」と話していました。
そして、世界ではいまだに戦争が続いていることについて「悲しいです。本当に平和を願っていれば戦争は終わるはずです。みんなが平和を願う心が強ければ乗り越えられると思います」と話していました。
カトリック信者の墓地でも
爆心地からおよそ1キロほど離れた長崎市浦上地区のカトリック信者の墓地には9日朝早くから訪れた人が静かに祈りをささげました。
原爆で祖父母を亡くし母親も被爆した長崎市の75歳の男性は「戦争がなければこういうことはなかっただろうと思います。世界各国で戦争があるけど早くなくなり、若い人たちが亡くなることがないようになってほしいです」と話していました。
2歳のときに広島で被爆した81歳の女性は、長崎市で被爆し、13年前に亡くなった夫の墓に花を手向け、静かに祈っていました。
女性は「主人は2歳の時に長崎で原爆にあったそうです。毎年のことだから、お祈りするのが私たちの宿命だと思います。孫に『お墓参りに行ってきました』とメールをしてその姿を見せたいと思います。原爆、戦争がなくなってほしい」と話していました。
島原市に住む69歳の女性は、96歳の父親が被爆者で原爆で家族7人を亡くしました。
女性は「ここに来て刻まれた名前を見ると自分のおじさん、おばさんなんだなとつらい気持ちでいっぱいです。父は原爆が投下された数日後に長崎に入り、兄弟を探して1人でみとったと聞きました」と話しました。
父親はこれまで原爆の話は一切しませんでしたが、数年前に頼んで手記を書いてもらったということで「見聞きしていたより現実味を帯びていて、ことばにはできない思いをしたんだなと思いました。いま、高齢になって原爆を知っている人や伝える人が少なくなっているので、父から聞いたことや手記で読んだことを伝えていかないといけないと思います」と話していました。