そのうえで「『妖婆』は『アグニの神』と云ふ御伽噺に改鋳した。『妖婆』よりは少しは増しになつたらう」と書いていて、佐藤からの批評を気にしていた芥川の心情がうかがえます。
2人は、1917年に芥川が佐藤に手紙を送ったことがきっかけで交流が始まり、お互いを認め合った友人として芥川が亡くなるまで交流を続けてきました。
手紙には、このほかにも芥川が佐藤に依頼した本の表紙絵などについての感謝のことばが書かれていて、2人の厚い信頼関係をかいま見ることができます。
河野准教授は「自分の作品に対する批評を7年後でも気にしていて、それを書き改めた出来栄えをアピールしているところから、芥川の神経質な部分、それから佐藤春夫に対するライバル意識や遠慮といった感情がよく見えてくるおもしろい手紙で、貴重な資料だ」と話していました。
見つかった手紙はことし9月に、実践女子大学で開かれる企画展で公開される予定です。
佐藤春夫に関する研究を続けている、東京大学の河野龍也准教授によりますと2人はその後、手紙のやりとりを通じて芸術観や文学論を語り合うことで意気投合し、お互いを友人として、そしてライバルとして意識するようになったということです。 芥川が亡くなったあとに佐藤が発表した追悼文では、亡くなる前の年に芥川からもらった手紙が見つからず残念に感じていることなどが書かれていて、内容などから今回見つかった手紙のことを指していると考えられるということです。 見つかった手紙の前半は、芥川が出版しようとしていた随筆集の表紙絵や装丁を佐藤が描いてくれたことへのお礼とともに、題字や背表紙の字も書いてほしいと依頼していて芥川の佐藤に対する強い信頼がうかがえます。 一方、手紙の後半では、この7年前に佐藤が芥川の作品に対して文芸誌で酷評したことについて触れられていて、芥川が、佐藤の批評を長年、気にしていたことが分かります。 佐藤は追悼文で、芥川から「君一つ友人としてかう云ふことを了解してくれないか。つまりお互に誰が見ても明かに失敗したと思ふ作品を書いたやうな場合には敬意を表し合つてその批評は緘黙し合ふことにしようぢやないか」と言われたことを明かしています。 河野准教授は「芥川は子どもの頃から怪談が好きで、本人としては怪談という題材の作品に自信を持っていたはずだが、才能を認めていた佐藤からの酷評は相当ショックだったのではないか。ただ、捨てるに忍びない作品だったので、子ども向けの作品に書き換えて、近代味が乏しいという佐藤の批判を回避し、新しい作品に仕立て直そうとしたことがよく分かる」と話しています。 見つかった手紙の最後は、佐藤のデビュー作である「田園の憂鬱」にかけて「僕は頭の悪いのに新年号を書かなければならず。目下海辺の憂ウツ中だ」という文章で締められていて、友人に対して人間らしい一面を見せた文豪・芥川龍之介の等身大の姿をかいま見ることができます。
芥川龍之介と佐藤春夫の関係