2011年2月22日、ニュージーランド南部で発生したマグニチュード6.3の地震ではクライストチャーチ中心部の語学学校が入ったビルの倒壊などにより、日本人28人を含む185人が死亡しました。
発生から13年となる22日、クライストチャーチでは追悼式典が行われ、ニュージーランドのラクソン首相や、日本からの遺族らも参加しました。
式典では地震発生時刻の午後0時51分、日本時間の午前8時51分に参加者が黙とうをささげたあと、犠牲者全員の名前が読み上げられました。
式典のあと、参加者は犠牲者一人一人の名前が書かれた石碑に花を手向け、犠牲になった家族や友人を悼んでいました。
当時19歳だった娘のめぐみさんを亡くした富山市の堀田和夫さんは「ここに来ると娘に会える気がします。1月の能登半島地震では娘のことが一番に思い浮かび、強い揺れで何もすることができず、怖かっただろうと胸が痛くなりました」と話していました。
また、日本の遺族とことばを交わしたラクソン首相は「地震から13年がたって、娘さんを亡くされた家族と話しができたことはよかった。夢と可能性を持って、ここにいた彼女たちのことは忘れないだろう」と話していました。
遺族「当時の思いに変わりはありません」
当時19歳だった娘の佳世さんを亡くした富山県高岡市の金丸直弘さんは、「ことしで13年がたちましたが私たちの当時の思いに変わりはありません。語学専門学校に来て悲しみが深くなっています」と話していました。
また、同じく当時19歳だった娘の紗央莉さんを亡くした石川県金沢市の菊田邦俊さんは「能登半島地震を経験し、13年前、娘が感じた震度7前後の揺れのすごさや恐怖感を知りました。通常の生活が通常にできるのは本当にありがたいことだと、今回の能登の地震で改めて思いました」と話していました。
さらに、当時19歳だった娘の沙希さんを亡くした富山市の横田政司さんは「能登半島地震が発生したとき、富山市内の神通川の堤防を歩いていて、街のほうを見るとマンションが横揺れしていました。私でさえ怖かったのに、当時、娘はパニックの中で、一瞬にしてビルが潰れたと想像すると、絶句し、何も考えられなくなりした。願いがかなうなら、もう一度、娘の声を聞きたいし、笑っている姿を見たいです」と話していました。