沖縄から疎開する子どもたちなどを乗せて長崎に向かっていた「対馬丸」は、79年前の昭和19年8月22日、鹿児島県の沖合でアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、800人近くの子どもを含む1484人が犠牲になりました。
22日は那覇市の慰霊塔の前で慰霊祭が行われ、生存者や遺族など250人が参列しました。
生存者は年々少なくなっていて、先月には「対馬丸」から生還しみずからの体験を語り継いできた平良啓子さんが88歳で亡くなりました。
参列者は、船の汽笛の音に合わせて「対馬丸」の犠牲者と平良さんに黙とうをささげました。
このあと家族11人で乗り込み、両親ときょうだい合わせて9人を亡くした対馬丸記念会の高良政勝代表理事(83)が「ウクライナのみならず世界の至るところで戦争が勃発し、毎日のように沖縄周辺の緊迫した状況も報じられているが、戦争の歴史だけは決して繰り返してはいけない」と追悼のことばを述べました。
式典のあと高良さんは「平良さんのようにみずからの体験を通して対馬丸を語れる語り部はもういないですが、私もできる範囲で語り継いでいきたいです」と話していました。
慰霊祭に参列の生存者「ことばにならない」
対馬丸に家族6人で乗り込んだ西原町の宜志富紹心さん(90)は、息子や孫と慰霊祭に参列しました。
当時1歳の弟を背負いながら沈んでいく船のマストの上に登っていかだに乗り移り九死に一生を得ましたが、その後、避難している間に弟の行方が分からなくなったということです。
家族で唯一生き残った宜志富さんは「自分の親、兄弟が亡くなっている。ことばにならない」と胸に手を当てながら話していました。
対馬丸記念館では新たに2枚の遺影が展示
慰霊塔の隣にある対馬丸記念館では、慰霊祭に先立って新たに寄せられた2枚の遺影が遺族の手で展示されました。
このうち当時9歳だった兄の遺影を提供した嶋袋豊治さん(84)は、「このまま何も残さず兄が亡くなった事実がうやむやになるのは嫌なので飾ることになって自分も安心してあの世に行けます。悲劇が二度と起こらないように1つでも写真が増えてほしいです」と話していました。
また当時11歳だった兄の遺影を提供した久場弘さん(84)は、「写真を家で飾ることはあまりなかった。写真を見た人が供養してくれるだけでもありがたいです」と話していました。
対馬丸記念館は亡くなった人たちの遺影を集めて展示していて、これで展示されている遺影は、犠牲になった1484人のうち、406人になりました。