当時の両国のGDP=国内総生産は中国が1136億ドルだったのに対し、日本は3180億ドル。
文化大革命で経済・社会が大きく混乱した中国と、高度成長期を経てアメリカに次ぐ世界2位の経済大国となっていた日本との経済力の差は歴然としていました。
日本企業の工場を視察し、松下幸之助氏ら経済人とも面会して協力を求めたトウ氏は、帰国から2か月後、「改革開放」を国家目標に掲げ、市場経済化に大きくかじを切りました。 ※トウ=登+おおざと
中国のGDPは4078億ドルと10年間で2倍近くに伸びました。
欧米各国が制裁に動き、積極的な外資の誘致を目指す「改革開放」路線にも影を落とす形となりました。
1991年の海部総理大臣の訪中を経て、再び中国への投資熱が高まり、1997年の対中直接投資の実行額は43億ドルと、天安門事件以前の8倍余りまで伸びました。
2001年にはWTO=世界貿易機関に加盟し、「世界の工場」としてめざましいを発展を続けます。 中国が急速な経済発展を続ける中、外交では両国関係に変化が訪れます。 中国では、当時の江沢民国家主席が「愛国主義教育」を推進。
しかし、経済面では、上海、広州といった沿海部を中心に安くて豊富な労働力を求める日本企業の進出が続き、こうした状況は「政冷経熱」とも言われました。
輸出入をあわせた貿易額は2000年の857億ドルから2010年には3018億ドルと10年間で3倍以上に拡大します。 この間、日本の対中国貿易額は、対アメリカを上回り、日本にとって中国が世界最大の貿易相手国となりました。
この年の日本のGDPは5兆7590億ドル。 これに対して中国は6兆871億ドルと逆転し、日本は中国に「世界2位の経済大国」の地位を明け渡すことになったのです。 その後も日本が低成長を続ける中、中国のGDPは伸び続け、日本との差はさらに広がっていきます。
経済発展に伴って中間所得層が増加したことで、「世界の工場」としてだけでなく、「消費市場」としても重要な位置を占めるようになりました。 それは日本にとっても例外ではなく、日本の主要産業である自動車を見れば、一目瞭然です。 日系メーカーが去年、中国で販売した乗用車の台数は442万台にのぼり、日本国内の販売台数に匹敵する規模となっています。 さらに、観光の分野でも中国はお得意様となりました。 日本政府が2010年に中国の個人観光客向けのビザの発給要件を大幅に緩和すると、中国で日本旅行ブームが訪れ、中国人の旺盛な消費を表す「爆買い」ということばも生まれました。
日本を訪れる中国人の増加は、もともと漫画やアニメといった日本のカルチャーに親しみを持っていた若者を中心に対日感情の改善にもつながったとも言われています。
さらに新型コロナウイルスの感染拡大も日中の経済関係に変化を及ぼしています。 世界でも最初に感染が広がった中国は、2年以上がたった今も「ゼロコロナ」政策を堅持しています。
また、中国の沿岸部を中心に人件費が上昇したことで、「世界の工場」としてのメリットも減少し、日本企業の間では中国の生産拠点からの撤退や縮小に踏み切り、東南アジアや国内に移す動きも広がっています。 一方で、50年の経済関係の中で築いてきた日中のサプライチェーンは、一朝一夕で解消できるものではないうえ、世界2位の経済大国である中国市場の重要性も当面、変わることはありません。
天安門事件後も“経済協力”
「政冷経熱」の時代 日中貿易は拡大
停滞の日本GDP 世界2位は中国に
「世界の工場」から「世界の市場」に
米中覇権争い 新たな日中関係は