多くの大統領を輩出したフランス国立行政学院を卒業し、政府機関から投資銀行に転身しました。
社会党のオランド前政権で2年間、経済相を務め、2015年には経済活性化のため「マクロン法」とも呼ばれる法律を可決させ、商業施設の日曜や夜間営業の拡大や長距離バス路線の自由化など大規模な規制緩和を行いました。
前回2017年の選挙では「左派でも右派でもない政治を目指す」として立候補。
決選投票で極右政党のルペン氏をやぶって、史上最年少の39歳で当選しました。
それまで政権を担当してきた右派の共和党と左派の社会党の2大政党の候補者は決選投票にも進むことができず、さらに2か月後に行われた国民議会選挙でもマクロン大統領の政党「共和国前進」が圧勝し、フランス政治の伝統的な構図に大きな変革をもたらしました。
テロ対策や気候変動対策、制度改革などさまざまな課題に取り組みましたが、痛みを伴う改革は強い反発にもあいました。 最大の危機とも言われたのが、2018年11月に始まった抗議デモです。 発端はマクロン政権が気候変動対策の一環として導入を目指した燃料税の引き上げでした。 参加者が作業用の黄色い蛍光色のベストを身につけたことから「黄色いベスト運動」と呼ばれ、多いときには全国で数十万人が参加しました。 日々の暮らしや仕事に車が欠かせない地方の住民から反対の声が広がり、SNSを通じて全国的な抗議行動に発展しました。 パリをはじめ各地でデモ隊が警察と衝突したり、暴徒化した参加者が商店や駐車中の車に火をつけるなど混乱が起き、デパートや美術館が閉鎖を迫られるなど経済的にも大きな影響が出ました。 政権は燃料税の引き上げを断念するとともに、デモの最大の要因だった地方の不満に耳を傾けるとして、マクロン大統領本人や政権幹部が各地に出向き人々と対話を重ねました。 さらに財政再建のために進めていた年金制度改革をめぐっても、強い反発が起きました。 受給額が減る可能性があるとして、公共交通機関の労働組合が大規模なストライキに突入し、列車や地下鉄、バスの運行本数が極端に減り、通勤通学に大きな影響が出たほか観光客も減少しました。 こうした混乱が続く中、2020年に入るとヨーロッパでも新型コロナウイルスの感染が拡大します。 マクロン大統領は厳しい外出制限や一部を除く店舗の営業を禁止し、企業活動は大幅に制限されました。 一方で経済や雇用への影響を最小限にとどめようと、休業を余儀なくされる飲食店や商店の従業員の賃金を政府が補償するといった対策をやつぎばやに打ち出します。 さらに感染状況が落ち着き店舗が営業を再開すると、経済と感染対策を両立させるためレストランなどでワクチンの接種証明の提示を義務づけ、接種を強く促しました。 一部では「事実上のワクチン接種の義務化だ」という強い反発も招きましたが、経済と感染対策を両立するためだとして推し進めました。 一方、対外関係では「EU=ヨーロッパ連合を強化することがフランスを強くする」として、アメリカに追随するのではなく中国とも独自の関係を築くなど、国際社会で確固たる存在感を示すEUを目指すとしてきました。 ロシアとの関係ではウクライナ情勢をめぐる緊張が高まる中、プーチン大統領やゼレンスキー大統領、アメリカのバイデン大統領など、各国首脳との会談を重ね、積極的な仲介外交を展開。 軍事侵攻が始まった後も、EUの議長国として制裁強化の議論を主導しながらプーチン大統領との対話を続け、外交的な解決の道を探っています。 マクロン大統領の支持率をみますと、「黄色いベスト運動」や年金制度の改革をめぐるストライキの際には大きく落ち込みましたが、サルコジ元大統領やオランド前大統領の同じ時期を上回る水準で推移しています。 内政、外交で数々の試練に直面してきたマクロン大統領。 ウクライナへの軍事侵攻が続きヨーロッパも戦争の危機にさらされる異例の状況で行われる選挙で、フランスの有権者はマクロン大統領の5年間の実績に審判を下すことになります。
2002年の大統領選挙の決選投票でシラク大統領と争った父親のジャンマリ―・ルペン氏から極右政党を引き継ぎ、前々回2012年、前回2017年と立候補し、前回は決選投票に進んでマクロン大統領と争いました。 かつては「反移民」「反イスラム」を掲げていましたが、前回、決選投票でマクロン大統領に敗北したことを教訓に、過激な言動を控え「脱悪魔化」ともいわれる穏健化路線を進めて支持の拡大を図ってきました。 ルペン候補は「私たちが愛するフランス」を選挙戦のスローガンに据え、不法移民の国外追放や、これまで両親の国籍を問わず国内で生まれた子どもに自動的に国籍を与えてきた従来の制度の廃止などを公約に掲げています。 また、ウクライナ情勢を受けて燃料価格が高騰し各地で運送業者による抗議行動も起きるなか、ガスや電気、ガソリンなどの付加価値税を現在の20%から5.5%に下げると主張し、不安を抱く有権者の受け皿となり支持を集めています。
投票でいずれの候補者も有効投票総数の過半数の票を得られなかった場合、2週間後に上位2人による決選投票が行われる仕組みです。 1965年から行われている今の選挙制度のもとでは1回目の投票で決着したことはなく、すべて決選投票まで進みました。 1回目の投票で3位以下の候補に投票した有権者が決選投票でだれに投票するかによって結果が大きく左右されるため、1回目の投票では2位だった候補が決選投票で逆転して当選したケースもあります。 フランスの大統領の任期は5年で、連続した任期は2期10年までに制限されています。 また候補者の乱立を避けるため、立候補には国会や地方議会の議員などから500人以上の署名を集めることが必要です。 フランスでは大統領は国家元首として首相の任命や議会下院の解散、国際協定の承認など、内政から外交にいたるまで強い権限を持つ一方、議会選挙で同じ政治勢力が多数派を確保できなかった場合は大統領とは異なる政党から首相が任命され、政権内の「ねじれ」が生じることもあります。 かつてミッテラン大統領やシラク大統領の時代にこうした「保革共存政権」が発足し、大統領と首相が対立し難しい政権運営を強いられたことがありました。
2002年の大統領選挙では、当初は再選を目指す右派・共和国連合のシラク氏と首相を務めていた左派・社会党のジョスパン氏の争いとみられていました。 しかし、1回目の投票で今回の選挙に立候補しているマリーヌ・ルペン氏の父親で極右政党・国民戦線のジャンマリー・ルペン氏がシラク氏に続く2位につけ、EU統合への反対や移民の排斥を主張するルペン氏が決選投票に進んだことで「ルペンショック」として衝撃を与えました。 決選投票ではルペン氏の移民への差別的な発言に警戒感が広がり、シラク氏が圧勝しました。 2007年はシラク大統領に代わる新人候補どうしの争いとなり、右派の与党から立候補したサルコジ氏と、フランス初の女性大統領をめざした野党・社会党のロワイヤル氏による決選投票となり、サルコジ氏が勝利しました。 2012年の大統領選挙では、再選を目指すサルコジ氏と社会党のオランド氏が決選投票に進みました。 サルコジ氏は1期目に社会の格差が広がったことや、派手な私生活への批判を受けて支持が落ち込み、オランド氏がサルコジ氏を破って17年ぶりに左派の大統領が誕生しました。 伝統的な右派と左派の政党から大統領が選ばれる構図が変わったのが、前回・2017年の大統領選挙です。 社会党の現職だったオランド氏は国内で相次いだテロや景気の低迷による高い失業率などを背景に支持率が低迷し、立候補を断念しました。 一方、一時は本命候補とみられていた最大野党の右派・共和党のフィヨン元首相も家族の公金不正受給疑惑で支持率が急落しました。 こうした中、当時39歳だったマクロン氏は左派でも右派でもない政治を目指すとして独自の政治運動を立ち上げ、中道・無所属の候補として大統領選挙に臨みました。 そのマクロン氏と決選投票で争ったのは、父親から極右政党・国民戦線の党首の座を引き継いだマリーヌ・ルペン氏でした。 ルペン氏はEU=ヨーロッパ連合に批判的な主張を展開しつつ、「差別的な極右」というイメージの刷新に取り組んで若者などの間で支持を広げ、決選投票は、無所属の候補者と極右政党の候補者との異例の対決となりました。 決選投票ではマクロン氏が勝利し、フランス史上最も若い大統領が誕生することになりました。
マクロン大統領の5年間
ルペン氏とは
フランスの大統領選挙の仕組み
伝統的な構図からの変化