「沖縄戦」ほど実施されていない「本土復帰」の授業
「生徒: きょう5月15日は何の日でしょうか。とても大切な日です」
15日の朝、豊見城中学校で行われた全校集会です。沖縄の本土復帰について調べたことを、生徒15人が発表しました。
指導にあたった大城真紀子教諭です。4年ほど前から、本土復帰についての授業に取り組んでいます。
大城真紀子教諭
「きょう、5月15日という日を大事にすることで、本当の平和って何だろうというのを、子どもたちが考える日になると思う」
大城さんはこれまで、太平洋戦争の激戦地・ペリリュー島や、沖縄戦の戦跡を訪れ、自身が学んだことを子どもたちに伝えてきました。
その中で、アメリカ統治下の歴史も伝えなくてはいけないと考えるようになり、本土復帰についても教えてきました。
大城教諭
「(授業で)過去の歴史と自分のつながりを感じたときに、子どもたちの表情が変わったりとか、視野が広がったりとか、すごく目に見えて変化がわかるので」
ことしの5月15日は復帰をテーマにした授業を行おうと考えていた大城さん。
ほかの教員からも「やりたい」という声が上がり、全学年で取り組むことになりました。
5月13日、勉強会を開いて、復帰をテーマに教べんをとった経験がほとんどない同僚たちの負担を減らすため、教材も共有しました。
大城教諭
「1つの型を作っているので、それをもとにしながらやっていけたらなと思います」
沖縄県内ではこれまで、本土復帰に関する授業は、戦争体験者の講話や手記を活用した沖縄戦の平和学習ほど実施されていません。
理由は、どう伝えればいいのか、その手法が確立されていないことや、基地問題を伝える難しさなどさまざまです。
大城さんは、復帰前後の写真を活用する方法を紹介しました。
大城教諭
「先人たち、もしくはお年寄りたちはどんな時代を生きてきたのかというのを、この写真から少し考えられたらいいなと思います。この1日をどういうふうに過ごしていくかということを考えながら、この時間を過ごしてほしいなというふうに(生徒に)投げかけていったらいいかなと思います」
本土復帰から52年の15日。26クラス、およそ900人の全校生徒を対象に、一斉に授業が始まりました。
テーマに掲げたのは、「5.15から沖縄の未来を考える」です。
「教諭: これはどこの写真でしょうか? わかったらすごい!」
「生徒: 大学? 市役所? 病院?」
「教諭: 違います。沖縄に設立された、日本でもない、アメリカでもない、琉球政府という組織をつくりました。その建物なんです」
「教諭: これどこだ?」
「生徒: 甲子園だ。野球。試合に勝って喜んでいる」
「教諭: そう。沖縄勢が甲子園に初出場したときです。パスポートがあるということは日本ではないという扱いですので、土とか植物を(沖縄に向かう船に)乗せてはいけませんよということがあったので、海に土を捨てて帰ったという歴史があるそうです」
4月に福岡から来たばかりの教諭は、沖縄の歴史をあまり知らない自分だからこそ、子どもたちの目線でわかりやすく伝えることを心がけたといいます。
「教諭: これは戦争が終わって、アメリカでサンフランシスコ平和条約が結ばれて、『日本は日本で頑張ってくださいね』っていうふうになった時なんですけど、この日から沖縄は、日本に含まれなかったという『屈辱の日』と。屈辱ってわかる? めっちゃ悔しいってこと」
最後に子どもたちは、それぞれが思い描くふるさとの未来を、黒板に書き込みました。
「けんかや差別をやめて、いま幸せに暮らしているということに感謝する」
「国籍が日本、アメリカとかで表せない(当時の)人は、本当につらい思いや大変な思いをしたんだなということを、今まで以上に感じることができました」
石川鈴華教諭
「難しいところも、やはりありはしましたが、みんなも意見を出してくれて、私自身もいっぱい考えるところもあったので、やってよかったと思っています」
廣田翔平教諭
「沖縄に生きる人間として、どうあるべきかということを教えることができたのか、反省しているところです。節目があって、そのつど考えていく機会を設けていかないと、風化していってしまうので」
同僚たちと一緒に取り組んだ本土復帰の授業。大城さんにとって、手応えを感じた1日でした。
大城真紀子教諭
「先生たち自身の本来の使命感も湧き上がってくるようなテーマだったと思うので、(生徒たちには)家に帰ったら、『きょうってこんな日なんだよ』というのを自分たちから発信できるようになると、もっとまた広がっていくかなと思う」
沖縄が本土に復帰してから52年となった15日、沖縄各地の動きをまとめました。
沖縄本土復帰52年 石垣市で「平和行進」
石垣市では毎年、5月15日にあわせて市民団体や労働組合が「平和行進」を行っていて、「基地のない沖縄」の実現を訴えてきました。
1972年5月15日、アメリカ統治下にあった沖縄は本土に復帰しましたが、52年たった今も、沖縄県内には全国のおよそ7割のアメリカ軍専用施設が集中し、復帰当時、県民が、少なくとも「本土並み」にと願った基地の縮小は実現していません。
ことしは50人余りが集まり、市街地中心部の新栄公園をスタートとゴールに市街地を回るおよそ9.4キロを歩きました。
参加した地元の50代の女性は、「子どもたちに戦争のない地域を残していきたくて、できることを少しでもやろうと思って参加した」と話していました。
また、地元の80歳の男性は、「沖縄戦のことを忘れてはならないし、52年前の復帰に納得していない気持ちがあるので、それを訴えたくて参加した」と話していました。
復帰運動にかかわった人たち ゆかりの地で語る
沖縄本島の最北端で本土に最も近く、復帰の記念碑もある国頭村の辺戸岬では、当時、復帰運動に関わった人たちが、観光客に当時の状況や基地負担の現状などについて語りかけました。
国頭村の辺戸岬は、復帰前、20キロ余り離れた鹿児島県の与論島との間で、互いに沖縄の復帰を願ってかがり火がたかれるなど、復帰運動のゆかりの地となっています。
本土復帰から52年となるきょう、復帰運動に関わった人たち3人が集まり、観光客に当時の状況や基地負担の現状などについて語りかけました。
このうち、52年前のきょうが結婚記念日だという、大宜味村の金城健一さん(79)は、「5月15日は希望の日だと思い、結婚は復帰の日と決めていた。ところが52年たっても基地問題など日本政府の沖縄に対する施策は変わっていない。これからもずっと訴え続けていきたい」と話していました。
東京から観光で訪れた40代の夫婦は、「基地の問題など、テレビでしか知ることができませんでしたが、実際にお話を聞いて、みんなで考えないといけない問題だと改めて感じました」と話していました。