糸満市の「平和の礎」や「魂魄の塔」では、朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげています。
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。
6月23日は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日で、沖縄県が「慰霊の日」と定め、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が行われます。
県内のシンクタンクの調査によりますと、戦争を実際に体験した県民の割合は、全体の1割を下回っているとみられています。
こうした中、先月には旧日本軍が首里城の地下に造った司令部壕のうち、住民の犠牲の拡大につながる作戦が決められたとみられる、重要な場所の新たな映像が公開されました。
当時のことを証言できる人が少なくなる中、専門家からは沖縄戦の実相を伝えるための方法が、体験者の証言から、“物言わぬ語り部”とも言われる司令部壕などの戦跡に転換する分岐点にあるのではないかという指摘も出ています。
一方、県内には依然として全国のおよそ7割のアメリカ軍専用施設が集中し、国が沖縄を含む南西諸島の防衛力強化を進める中、自衛隊の新たな部隊の配備や強化も計画されていて、日本の安全保障に伴う沖縄の役割や負担は増しています。
県民の多くが命を落とし、平和への強い思いを持ち続けてきた沖縄。戦没者を追悼する23日は平和を見つめ直し、願いを新たにする一日となります。
「平和の礎」には24万2225人の名前
平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」は沖縄戦などで命を落とした人々を悼み、悲惨な戦争の教訓を後世に継承しようと、戦後50年の1995年に建てられました。国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなった人の名前が刻まれています。
また、沖縄県出身者については沖縄戦だけでなく、昭和6年の満州事変以降に戦争が原因で亡くなった人の名前が刻まれています。
毎年6月23日の「慰霊の日」に合わせて新たに申告があった戦没者の名前が追加されていて、ことしは県出身者24人、県外出身者157人のあわせて181人が追加され、礎に刻まれた人はあわせて24万2225人となっています。
「平和の礎」朝早くから遺族などが訪問
「平和の礎」の前では、23日朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげていました。
豊見城市の男性「平和の世の中になってほしい」
沖縄戦やサイパンで戦闘に巻き込まれ、祖父や叔父あわせて4人を亡くしたという豊見城市の69歳の男性は、子どもや孫と平和の礎を訪れ「二度と戦争が起こらない状況に持っていかないといけないが、沖縄に自衛隊を送りこむなど今は逆になっていると、昔の人はこの雰囲気をわかっているのではないか。平和を願うしかない、平和の世の中になってほしい」と話していました。
那覇市の女性「戦争いつなくなるんだろう」
祖父の母と祖父の妹が亡くなったという那覇市の40歳の女性は、「祖父が学童疎開をしている間に母と妹が亡くなって沖縄に戻ってきたら誰もいなくなっていたと聞いています。いまも世界で戦争が続いていて、いつなくなるんだろうと思っています。早く戦争が終わって終結して、日常の生活を取り戻してほしい」と話していました。
19歳の女性「たくさんの人が亡くなられた。胸が痛くなる」
ひいおじいさんの名前が平和の礎に刻まれている那覇市の19歳の女性は、「亡くなった詳しい状況はわかりませんが、この時期が近づいてきたら、ひいおじいさんをはじめ、こんなにたくさんの人が昔、亡くなられたと思い、胸が痛くなります。ここに来て、自分たちのご先祖様に『ことしも来たよ』とあいさつして、しっかりしようという気持ちになります」と話していました。
那覇市の具志光雄さん「平和を維持してくださいという思い」
平和の礎を訪れた那覇市の具志光雄さん(76)は、祖父母など7人の名前が刻まれた礎の前で水や果物などを供え、手を合わせました。
具志さんは「私の父からは終戦後、台湾から沖縄に引きあげると、家族が全滅していてショックだったという話を聞いている。祖父はどこで亡くなったかわからず、祖母たちは入っていた壕に毒ガスを投げ込まれて亡くなった。一族が7人も亡くなっているので、『おじいさん、おばあさん、平和をそのまま維持してください』という思いで手を合わせました」と話していました。
那覇市の比嘉芳美さん「亡くなった悲しさ ずっと心の中で」
母方の祖父など3人を戦争で亡くしたいう那覇市の比嘉芳美さん(65)は、日の出に合わせて平和の礎を訪れ、「母方の祖父は戦場で亡くなり、遺骨が戻ってこないままで、祖母は『どこで亡くなったのか、遺骨が戻って来ないか』と亡くなるまで気にしていた。戦争というのは、本人、家族の人生を変えるもので、亡くなった悲しさを家族はずっと心の中で引きずりながら生きていかなければならない。慰霊の日に、こうして皆が世界の平和を思い続けることは大事だと思う」と話していました。
那覇市の81歳の男性「戦争なければ元気だっただろう」
母と祖母を亡くしたという那覇市の81歳の男性は、「ことしも来ましたよという気持ちで祈りました。戦争がなければ、自分たちの親兄弟もまだまだ元気だっただろう。戦争は本当に残念だ」と話していました。
70歳の男性「毎年 平和の願いをここで」
70歳の男性は「祖父と祖父の弟の家族全員が、避難中に亡くなりました。二度とこういうことがないように、毎年平和の願いをここで誓いを立てようと来ています。いまだんだん世界がおかしくなっているので、平和がずっと続くように、安らかに眠ってくださいと祈りました」と話していました。
宮古島市の男性「慰霊の気持ちでお参りに」
宮古島の飛行場でアメリカ軍の攻撃を受けて叔父が亡くなり、また南方で船に乗っていた別の叔父を失ったという宮古島市の73歳の男性は、「沖縄でこんなに犠牲があり、慰霊の気持ちでお参りに来ました。息子や孫にもこういうことがあったと現地に来るだけでも、思いが通じると思います」と話していました。
一緒に訪れた那覇市に住む次男は「先祖がいて、自分たちがいる。おじいちゃんや、おじいちゃんのきょうだいの時代にあった戦争を二度と起こさないようにして、平和な沖縄が自分たちの子どもの代まで続くようにしたいです」と話していました。
孫の小学3年生の女の子は「きょうは戦争が終わった日で戦争は怖かったと感じる。戦争をなくしたい」と話していました。
志喜屋秀壮さん「戦争ない時代 当たり前でない」
祖父の名前が刻まれている平和の礎を母親と訪れた志喜屋秀壮さん(53)は、「祖父は軍に食料を供給するため漁師として、今の南城市からインドネシアの島に行ったが、漁に使う手投げ弾が誤爆して亡くなった。戦争のない平和な時代だが、それが当たり前ではなく、いつでも戦争になりうるということを若い世代にも意識してほしいと思う」と話していました。
バスガイドの秋重優里さん「知ったことを生徒に伝えられるよう」
夜明け前に平和の礎を訪れた那覇市のバスガイドの秋重優里さん(19)は「79年の月日がたったので、平和の祈りを込めて79羽の鶴も折ってきました。ガイドをするようになって、戦争のことを知ることができるようになりました。知ったことを生徒に伝えられるよう、生徒たちが少しでも理解が深まるようにしたいです」と話していました。
「魂魄の塔」でも平和の祈り
「魂魄(こんぱく)の塔」は、沖縄戦最後の激戦地となった糸満市の米須に、沖縄戦の翌年の1946年に、県内で初めて建てられた慰霊塔です。
米須地区に収容された今の那覇市、当時の真和志村の住民がアメリカ軍の許可を得て遺骨収集班を結成し、道路や畑に散っていたおよそ3万5000人の遺骨を集め建立しました。
遺骨の見つかっていない遺族が多く訪れる場所になっていて、23日朝も訪れた人たちが静かに手を合わせて、平和への祈りをささげていました。
92歳の男性「兄たちの犠牲の上に今の生活ある」
兄2人が糸満市米須の近くで亡くなったという92歳の男性は「兄貴2人がこの近くで戦死して、魂魄の塔に遺骨が入っています。19歳と21歳でした。来年は沖縄戦から80年で、私ももう高齢なので来られない。兄貴たちの犠牲の上に、今の生活がある。2人の兄貴に感謝したい」と話していました。
83歳の女性「とても優しい兄だった」
83歳の女性は「兄は19歳のときに亡くなりました。写真も残っていません。私を『大きくなれ』とだっこして、それが最後だったとても優しい兄だった。戦争がなく、幸せに生きていくのが一番です」と話していました。