知覚の役割は、教科書的には、当面の世界の状況を具体的に把握することだと説明される。ある日突然、知覚の一つを失ったことを考えると、それはよくわかる。それぞれの知覚についての教科書的な説明は、だから五感という入力そのものの具体的な説明である。しかし脳にとっての知覚入力全体の役割は、それぞれの知覚そのものが果たす役割とは、違うはずである。脳はそうした諸入力の共通の処理装置でもあるからである。ヒトの知覚入力が脳で究極的に処理されて生じる、もっとも重要なことはなにか。
私はそれを世界像の構築だと考える。われわれはだれでも、ある世界に住んでいると思っている。その世界では、熱いものに触れば火傷し、火傷するとしばらく痛む。私の家からしばらく歩けばお寺があり、休日には何人もの入が写真をとったり、見物しているの
を見ることができる。そこから20分も歩けば、鎌倉駅に着く。そこには東京方面と横須賀方面行きの電車が走っており、少し違った方向へ行けば、江ノ島電鉄線に乗れることがわかっている。
こうした身のまわりの世界像は、動物でも多かれ少なかれ、持っているはずである。たとえば私の家のネコも、自分の住む世界をそれなりに把握している。それはどうやらお寺の庭までらしい。そこまで出かけそいるのは見ることがあるが、それ以上先では、見かけたことがないからである。このネコを抱いて、ネコの知っているらしい範囲から出ようとすると、手のなかで暴れだし、飛び降りて逃げてしまう。
単純な世界像の一つとして、ダニの世界を挙げることができる。「1」葉上にいる吸血性のダニは、炭酸ガスに反応して、運動がさかんになる。炭酸ガスの濃度が上がる
ことは、近くに呼吸をする動物が近づいた可能性を意味するからである。そこにわずかな震動が加
わると、ダニは落下する。うまく落下すれば、動物のからだの上に落ちる。そこが37度程度の温度であり、あとは酪酸の臭いがすれば、ダニはただちに吸血行動を始める。(中略)このように、動物がそれぞれの限られた知覚装置から、自己の生存に必要な世界像を作っているであろうということは、ヤコプ・フォン・エクスキュルによって最初に主張されたことである。
われわれヒトが持っている世界像は、はるかに複雑である。しかしそうした世界像ができあがるについては、ダニの場合と根本的には同じように、そこにさまざまな知覚入力があったはずである。それらの入力は、脳で処理され、しばしば保存される。学校で勉強したことも、知覚からの入力である。先生の話を聞けば、話は耳から入ってくる。これは聴覚系からの入力である。教科書を読めば、視覚から入力が入ってくる。こうして五感から入るものを通して、われわれは自分の住む世界がいかなるものであるか、その像を作り出
し、把握しようとする。
このようにして把握された世界は、動物が把握するような自然の世界だけではない。ヒトはさらに社会を作り出す。言い方を変えれば、社会はそうした世界像を、できるだけ共通にまとめようとするものである。ある社会のなかでは、人々はしばしば特定の世界像に対する好みを共有している。だからその社会は、共通の価値観を持ち、人々はしばしば共通の行動を示す。同じ社会のなかでも、友人どうしはそうした世界像が一致している場合が多い。さもないとおたがいに居心地が悪かったり、喧嘩になったりする。特定の世界像を構成し、それを維持し、発展させること、それが社会と文化の役割である。社会はじつは「___2___」である。
(養老孟司『考えるヒト』筑摩書房による)