野村さんは京都府出身、昭和29年に峰山高校からテスト生でソフトバンクの前身、南海に入団しました。
昭和36年から8年連続でホームラン王を獲得し、昭和40年には戦後初の三冠王に輝きました。
「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーとなり、選手兼任監督としても8年間チームを率いて昭和48年にはリーグ優勝を果たしました。
その後、ロッテと西武でプレーし、昭和55年に45歳で現役を引退しました。
通算3017試合出場は、平成27年に中日で選手兼任監督だった谷繁元信さんが更新するまで長年にわたってプロ野球記録でした。
また通算2901安打、ホームラン657本、1988打点はいずれも歴代2位で、平成元年に野球殿堂入りしています。
翌年の平成2年にヤクルトの監督に就任し、データを重視した「ID野球」をチームに植え付けて3回の日本一に導くなど手腕を発揮しました。
その後、阪神や楽天で監督を務め、「ぼやき」と呼ばれる独特の話しぶりで選手をしった激励し、平成21年にユニフォームを脱いだあとは解説者として活躍しました。
野村さんは2017年に亡くなった妻の沙知代さんとのおしどり夫婦としても知られ沙知代さんがなくなった後もプロ野球の会合などに参加する姿が見られました。
先月、行われた金田正一さんをしのぶ会にも出席していました。
「ONがひまわりなら私は月見草」
野村さんの現役当時、パ・リーグは人気でセ・リーグに大きく水をあけられていました。また長くプレーした南海も本拠地がある大阪でセ・リーグの阪神と比べて存在感が薄いことを嘆いていました。
また戦後初の三冠王を達成するなど輝かしい実績をあげていた野村さんは自分自身がどんな大記録を打ちたてても報道の扱いが小さく、世間に知られることが少ないとも感じていました。
とりわけ球界の盟主・巨人、その中心的な存在のON、王貞治さん、長嶋茂雄さんへのコンプレックスを終始、持ち続け、それが野村さんにとって高みを目指し続ける大きな動機付けになったといいます。
野村さんが長嶋さん、王さんとの関係性をあらわしたことばに「王や長嶋がひまわりなら、私はひっそりと咲く月見草」というのがあります。これは昭和50年に野村さんが王さんに次いでプロ野球史上2人目となる600号ホームランを打った時に報道陣に向けて披露しました。夜中にひっそりと咲く月見草が自分で、太陽の下で咲くひまわりを長嶋さん、王さんに例え、境遇の違いをわかりやすく示したのです。
若松勉さん「意表をついた指揮」
野村克也さんが亡くなったことについて野村さんの後にヤクルトの監督を務めた若松勉さんは、「先月のヤクルトのOB会で会った時に元気だったので、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかった。びっくりした」と話しました。
また野村さんがヤクルトの監督だった時に打撃コーチを務めたことを振り返り「打てなかったら夜中までデータを調べてこいと言われた思い出が結構あり、配球などについて厳しかった。大監督で野球をよく知っていて意表をついた指揮ができた。監督としての考えは一緒にいてびっくりするぐらいだった。本当にまだまだ長生きしてほしかった」と話していました。
楽天 三木谷社長「イーグルスの礎を築いた」
野村克也さんが死去したことについて、楽天の三木谷浩史社長は11日午前、ツイッターに「早朝に球団より、とても悲しい訃報を受けました。本当にお世話になりました。誰も引き受けてくれなかった駆け出し球団の監督を引き受けて頂き、イーグルスの礎を築いて頂きました。感謝しかありません。ありがとうございました」と投稿しました。
「監督能力の高さ 当代一流」「自分の意思はっきり」
野村克也さんが亡くなったことについて、東京 渋谷で聞きました。
73歳の男性は、「当時のトップではなく中から下のチームに行って、日本一に引き上げるというのは、監督としての能力の高さが当代一流だったと思う。一方、知将というわりにはとぼけた味があって、語りはソフトで軟らかく、人心をつかむ術にたけていたと思う。奥様ともども世情をにぎわせて、昭和・平成という時代にトップで野球界を生き抜いた人でした」と話していました。
50代の女性は、「自分の意志をことばを選ばずにはっきり言う気持ちがいい方で、すてきでした。奥様とのやり取りも、好きだからこそぶつかるというか、少年がそのまま大人になったような、かわいい感じがして、楽しませてくれました」と話していました。