眞子さまは標高およそ2400メートルの山の上に広がる遺跡の中を2時間余りにわたって散策し、初めに遺跡の全体を見渡すことができる高台に立つと、「言葉にできない何かがありますね」と話されました。
また、大きな石を隙間なく組み合わせて造られた神殿の跡などを見て、眞子さまは「この石の組み方はすごくきれいですね」などと感想を述べられていました。
このあと眞子さまは、ふもとにあるマチュピチュ村の役場を訪問し、村長らのあいさつを受けられました。マチュピチュ村は、102年前に日本からペルーに移住した野内与吉さんが1948年に村長に就任するなどして村の発展に貢献しました。役場には野内さんの写真が飾られていて、眞子さまは野内さんの孫で日系3世の野内セサル良郎さんから説明を受けて、大きくうなずかれていました。
眞子さまは現地時間の翌14日でペルーでの日程を終え、続いて隣のボリビアを公式訪問されます。
マチュピチュ村 日本人移住者が発展に尽力
眞子さまが訪問されたマチュピチュ村は、102年前にペルーに移住した日本人、野内与吉さんが発展に力を尽くしました。
野内さんは現在の福島県大玉村で生まれ、大正6年(1917年)、21歳の時に集団移住に加わってペルーに渡りました。
農園で働くなどしたあとペルーの国鉄に勤務し、マチュピチュのふもとに続く鉄道の建設工事に携わったことをきっかけに、ふもとの集落で暮らすようになりました。
現地で家庭を築いた野内さんは水力発電の施設を整備して集落に電気をもたらしたほか、ホテルを建て、一部の部屋を郵便局や交番などとして無償で貸し出していたということです。
野内さんが見つけたと伝えられる温泉もあり、住人や観光客の憩いの場となりました。数々の功績から、野内さんは集落の最高責任者の行政官に任命され、さらに集落が村になったあとの1948年には村長に就任しました。
そして、1969年、73歳で亡くなるまで、マチュピチュ村の発展に尽くしました。
マチュピチュ村と野内さんの故郷、福島県大玉村は2015年に友好都市協定を締結。マチュピチュ村が友好都市協定を結ぶのは初めてでした。
その後も村長が互いの村を訪問し合うなど、日本人移住者がきっかけで交流が生まれました。