8月30日の降り始めから1週間の雨量は、多いところでは1800ミリ。
各地で1000ミリを超える記録的な雨量を観測しました。
9月4日には土砂災害や河川の氾濫が相次いで発生。紀伊半島豪雨です。
和歌山県、奈良県、三重県の3県で1万棟を超える家屋が被災し、死者・行方不明者は88人に上りました。
発生から10年。被害が最も大きかった和歌山県の那智勝浦町では4日未明、犠牲者の追悼行事が行われます。
那智勝浦町の久保榮子さん(78)は避難をしなかった、あの日のことを今でも後悔しています。 10年前の9月4日の午前2時ごろ、台風の影響による大雨が降り続いていた那智勝浦町では、久保さんが住んでいた地区に避難指示が出されました。 家の近くには那智川が流れていましたが、久保さんは避難しませんでした。 ふだんはのぞき込まないと水の流れが見えないくらい穏やかな川だったためです。
避難指示が出てから1時間もたたないうちに、同居していた娘の靖子さんが叫びました。 家の中に水が押し寄せ、あっという間に胸の高さまでつかりました。 久保さんと夫の二郎さん、娘の靖子さんの3人はなんとか窓から外に出ました。 しかし、外は水であふれ、足が地面に付かない状態でした。 久保さんたちは濁流に流されないよう、家の雨どいにぶら下がるのがやっとでした。 しかし、ほどなくして、久保さんは流されてしまいます。 呼吸もほとんどできないまま100メートルほど流されました。 もがきながら手を伸ばすと、歩道沿いのフェンスをつかむことができました。 フェンスにつかまってようやく見た光景は今でも忘れられないといいます。 久保榮子さん 「那智川も川沿いの県道も同じ水の高さになっていて、車が何台もものすごいスピードで流されていった。地獄のような光景だった」
その後、再会した娘から夫の二郎さんも流されたと聞きました。 二郎さんは遺体で見つかりました。 久保榮子さん 「突然亡くなったので実感がわかなかった。何日待っても何年待っても帰ってこないのは本当につらかった」 早く避難していればこんなことにならなかった。 久保さんは今もあのとき逃げなかったことを後悔しています。
しかし、紀伊半島豪雨では「雨の数値だけを聞いてもどれくらい危険な状態か分からなかった」という意見が相次ぎました。そのため多くの人が避難に結びつけられず、被害の拡大につながったと指摘されました。 このため、気象庁が紀伊半島豪雨の2年後の平成25年に導入したのが、「特別警報」です。 強い危機感をわかりやすく伝え、身を守ってもらうために、「大雨」や「大雪」、「暴風」、「暴風雪」、「波浪」、それに「高潮」について、発表することになりました。
被災から3年後、みずからの被災体験を描いた紙芝居を作り、活動を始めたのです。
「こんな思いはほかの人にはしてほしくないから」 久保さんは紙芝居の後には、常に最悪を想定して、早めに避難することの大切さや町の避難所だけでなく、親戚の家や宿泊施設など安全な場所を事前に確認しておくこと。それに逃げるのが遅れた場合には、自宅の二階に避難することなどを具体的に紹介しています。
久保榮子さん 「のど元すぎれば熱さ忘れるっていうことなんでしょうね。『もうあんなことは二度と起きない』と聞くこともあります」 このままではまた命を落とす人がでる。ことしで79歳になる久保さんですが、体が動くかぎり、避難の大切さを語りつづけていく活動を続けていく覚悟です。
「夫をはじめ、亡くなった人たちは『命の大切さ』を伝えてくれました。だから、いま生きている人が自然災害で犠牲になったら、顔向けできないんです。だからこそ私は早めの避難を訴える語り部の活動を続けていきたい」 (取材:和歌山放送局 記者 竹内 宗昭)
避難しなかったあの日のことを今でも後悔
川に流されフェンスにつかまって見た地獄
夫も流され帰らぬ人に
紀伊半島豪雨 「特別警報」導入のきっかけに
“避難の大切さ” 紙芝居で伝える
あれから10年 今伝えたいこと