横田滋さんは昭和52年(1977年)、中学1年生の時に新潟市の学校から帰る途中、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親で、娘の救出のために半生をささげてきました。
「拉致被害者の救出運動のシンボル」として妻の早紀江さん(84)とともに活動の先頭に立ってきましたが、体調を崩して、おととし4月からは川崎市内の病院に入院し、今月5日、老衰のため87歳で亡くなりました。
早紀江さんと、双子の息子で兄の拓也さん(51)、弟の哲也さん(51)の家族3人は、9日午後、都内で記者会見を行いました。この中で早紀江さんは、「長い闘病生活でしたが、いつも穏やかでいつも笑顔でした。なかなか解決には向かわず、難しい問題だとつくづく思わされていますが、思い残すことがないほど全身全霊打ち込み、頑張ったと思っています。本当に安らかに静かな顔で見送ることができました。これまでの支援に感謝しています」と話しました。
また、滋さんと最後に交わしたことばについて、「耳の近くまで顔を寄せて『お父さん、気持ちよく眠ってください。私が行くときまで、忘れないで待っていてね』と声をかけると、片目を少し開けて涙を流したような気がしました。それから眠るように亡くなっていきました」と話しました。
また、拓也さんは「はじめは何の手がかりも情報もなく、苦しい中を走り続けた25年間だった。父は、姉を目の中に入れても痛くないほどかわいがっていたので、どれほど会いたかっただろうと思うと悔しくてしかたがない。今後、何としても解決していきたい」と話しました。
哲也さんは「拉致問題が解決しないまま父が他界したことに、私たちは憤りと無念を感じています。父が果たせなかった遺志を受け継いで、墓前で『帰ってきたよ』と報告することが使命だと思っています」と話しました。
横田滋さん 入院後の日々
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親の横田滋さんは、体調を崩し、おととし4月から川崎市内の病院に入院していました。
ことし84歳になった妻の早紀江さんは、体力の衰えを感じながらも毎日必ず病院を訪れ、面会を重ねてきました。
自分の足で立つことが難しくなった滋さんは、車いすに乗って早紀江さんと病院の敷地内を散歩したり、リハビリを行ったりして体力の維持に努めてきました。
早紀江さんは滋さんの手足の関節が硬くならないよう毎日マッサージをしてあげていたということです。
早紀江さんが病室に置かれためぐみさんの写真を見ながら、「あと少しで会えるかもしれないからがんばろうね」と声をかけると滋さんは「うん」とこたえ、励まし合っていました。
最近は、新型コロナウイルスの感染防止のため直接会うことができなくなりましたが、タブレット端末を使ってテレビ電話で顔を合わせていたということです。
拉致被害者家族 今後の活動は
北朝鮮による拉致被害者の家族たちは高齢化が一段と進み、解決が時間との闘いとなる中、「肉親と生きて再会できなければ解決とは言えない」として、日本政府に被害者全員の帰国に向けた具体的な取り組みを求めるとともに、北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)委員長に対し、被害者を返す決断を呼びかけていくことにしています。
拉致問題は、最初の事件からことしで43年となり、政府が認定している拉致被害者のうち安否が分かっていない12人の親で、子どもとの再会を果たせずに亡くなった人は、平成14年の(2002年)日朝首脳会談以降だけでも、横田滋さんで8人になります。
ことし2月には、有本恵子さんの母親の嘉代子さんも亡くなり、今も健在な親は、横田めぐみさんの母親の早紀江さんと、有本恵子さんの父親の明弘さん(91)の2人となりました。
家族会では、数年前から滋さんの長男の拓也さんらが中心となって、救出活動を行っていますが、早紀江さんとともに、「拉致被害者の救出運動のシンボル」として先頭に立ってきた滋さんが亡くなったことで、被害者家族は「生きているうちに再会を果たしたい」という思いをこれまで以上に強くしています。
拉致被害者の家族会は長年、北朝鮮への圧力を高めることで拉致問題の解決を求めてきましたが、北朝鮮のキム・ジョンウン委員長が、アメリカや韓国との対話に乗り出す中で、去年、キム委員長に初めて直接メッセージを発信し、すべての被害者の早期帰国が実現すれば、日朝国交正常化を妨げることなどを伝え決断を促しました。
米朝間の交渉は行き詰まり、拉致問題の先行きは見えない状況が続いていますが、家族たちは政府に対し、主体的に戦略を練って被害者の帰国を実現させる糸口をさぐり、肉親との再会が果たせないという悲劇をこれ以上繰り返さないよう強く求めています。