来世紀に向けて、個人レベルであれ地域社会・地球規模であれ、科学技術の進歩ゆえにいっそう複雑になっていく問題に対して、個人が判断しなくてはならない局面が増えていくことだろう。その時に自分なりに納得のいく判断を下すためには、科学に無関心・無理解を決めこんだりせず、ふだんかち科学に日を向け、科学的な考え方にふれている必要があるだろう。つまり、「1」科学と社会を結びつける良質の情報が必要なのである。その情報は自分の行動に役立てるために受信するだけではなく、場合によっては、自ら責任ある発信者となるために役立てることも大切である。
残念なことに、科学者がもたらした成果は、そのままでは判断材料としては「2」役に立たないことが多い。まず、専門用語ゆえに科学はとりつきにくい。科学が高度になり細分化したために、領域が異なれば科学者でも理解が困難な状況になってしまっている。良質の情報は優れた「3」表現能力をともなわなくてはならないが、実際のところ、研究に専念している科学者には時聞的余裕がなく、そうした表現能力を磨くいとまもないのが普通である。
一方で、「4」科学者にも良質の情報が必要である。科学者は何かしら新しいことを世界に先駆けて発見・発表することに熱中するものである。その結果が化学・生物・核兵器の開発に加担することはないか、あるいはわれわれの生活ないしは地球という生態系に思いもよらぬ影響を与えることがないかに思いを馳せる機会は、必ずしも多くはない。「5」こうした点に関して、科学者は外部から指摘される必要がある。
「___6___」、最先端の科学の研究成果とその社会的意味を科学に慣れ親しんでいない人に、また社会的意味については科学者に対しても改めて説明する人材、つまり科学のインタープリターが必要となる。インタープリターは専門用語の単なる直訳者ではなく、問題を指摘し、進むべき方向を示唆する、科学と実生活の橋渡しをする解説・評論者である。かれらが架けるその橋は、専門化した科学技術を公開して市民を啓蒙するという一方通行のものであってはいけない、インタープリターには科学者がふだん忘れがちな社会への波及効果、倫理的問題、他の科学技術や学問分野との連繋の可能性なども鋭く指摘してほしい。また、一般の人の科学に対する素朴な疑問の中からインタープリターが斬新な考えを吸い上げることで、科学者は思いもよらぬ発想転換のヒントを得られることも考えられる。
現在でも優れた作家、評論家、科学者、ジャーナリストなどが先端科学のインタープリターとして活躍しているが、21世紀に向けてその活躍はますます期待されている。
(課田玲子「杜会のなかの科学、科学にとっての社会」『現代日本文化論13日本人の科学』による)
いとま: 暇、時間のゆとり