うちの犬は頭がよくないけれどむやみに吠えない。これは犬種の性格である。もうひとつ、絶対に嚙みつかない。これは訓練士に仕込まれた成果である。大きな犬なので幼児に嚙みついたら事件になってしまう。
訓練士は二十代の女性でスクーターに乗ってやってきた。訓練時間は週に4回、各30分である。半年近く経っても訓練が終わらないので、いつになったら卒業できるんですか、と訊ねた。家庭内での序列がはっきりしたら、と説明する。序列ねえ、どういうことかな、
とさらに質問すると、お宅の坊ちゃんがまだ……。
十年前なので息子は小学生である。体格的にも犬と息子に差がない。うちの犬はまず僕、つぎに妻と気の強い娘に降参したのだ。だが息子は軟体動物のようにふにゃらふにゃらとしている。寝てばかりいる。起きてもあくびばかりしている。両者は最下位争いを演じたまま四つに組んで決着がつかないらしい。
動物は序列に敏感なのだ。(中略)
女性の訓練士が説明した。犬をかわいがっているつもりで甘やかし、腕をがぶりと嚙みつかれた飼い主がいた。甘やかせばつけ上がるだけ、自分が主人と信じ込んで飼い主をな
めた結果である。動物はつねに威嚇しながら序列を確認しているから、仲間同士は本気で喧嘩をしない。相手が強い、とわかれば争わない。喧嘩したら互いに傷つき、厳しい自然界では生き残れないから。
さすがに血のめぐりの悪いわが家の犬も、ある日、息子にゴツンと頭を叩かれ、最下位が確定、平和的に棲み分けが決まり、予算オーバーの訓練は終了した。
動物から教訓を得たわけではないが、家庭内でも夕テマエとしての序列がないと混乱がはじまる。親父の権威の喪失が取り返しのつかないところまできたのは家父長制を否定しすぎた結果でもある。戦前は長子相続で、次男以下は相続権がなく女性にいたってはその他大勢の扱い、ひどいものだった。そういう状態を復活せよ、と述べているのではない。
職場で女性がもっと管理職に進出できる環境は整えたほうがよいし、僕の経験からして共働きには賛成である。家事も分担したほうがよい。だが男女平等をはきちがえてはいけない。家庭は動物の巣に似た面がある。権威としての父性、包容力の母性まで削り取ってはいけない。父親は筋肉質で髯をはやし、母親には柔らかな肌とやさしい笑顔があるように、それらしく演じ分けたほうがよい。頻発する家庭内暴力が役割構造の喪失と無縁では
ないからである。
(猪瀬直樹「家」1999年9月26日付朝日新聞朝刊による)