昼下がりのカフェでのこと。男女の争う声に振り向くと、ひとりの女が立ち上がり、持っていたグラスを逆さにして飲み物をこぼし始めた。
客達の視線が集まる。連れの男は顔を上げようとはせず、女の腕を掴んで座らせようとするが、女はその手を振り払うと、叫んだ。
「あんたなんか最低よ!」
ほかの客が言っている声が聞こえる。
「ドラマみたいね」
いささか陳腐だったが、「1」女は「演じること」ですっきりしたのかもしれない。
現実的ではないことを、「ドラマみたい」とよく言う。
13年前の朝のことだった。洗面台と洗濯機とのわずかな隙間に頭を突っ込んで、母が全裸で倒れていた。意識はなかった。
救急隊員の緊迫した医療用語が飛び交い、心臓マヅサージが始まる。オレンジ色の毛布を掛けられた母は、ピクリとも動かない。その隙に、開け放たれた玄関から飼い猫が外へ出てしまった。
当時、大学生だった弟が、とっさに猫を捕まえたその時、「猫なん構っている場合ですか!」と隊員の怒鳴り声が飛んだ。
弟は、「2」猫を抱いたまま立ち尽くしていた。
後は、「かかりつけの病院は?」、と、はじかれるように聞かれたことだけしか思い出せない。
これがドラマなら、大概は「姉弟でお母さん!」と駆け寄って下さい」と指示される。
人間は、とっさにとんでもないことをする。長年、人間を見つめる仕事をしてきたはずが、人の本当とはなにか、いまだに捉えきれないでいる。
(岸本加世子「岸本加世子の台本にないセリフ」2003年1月11日付朝日新聞による)
いささか陳膓だ:よくある情景だ
かかりつけの病院:いつも診てもらっている病院