渡辺さんは大正15年に東京で生まれ、昭和25年に読売新聞社に入社し、政治部の記者として自民党の大野伴睦初代副総裁や中曽根康弘元総理大臣などの取材を長く担当し、政治部長や論説委員長も務めました。
平成3年に社長に就任し、その後、読売新聞社が持ち株会社制に移行したのに伴いグループ本社の社長となり、平成16年からは12年余りにわたって会長を務めました。
平成11年から4年間は日本新聞協会の会長にも就いています。
スポーツの分野でも影響力を持ち、平成8年にはプロ野球・巨人のオーナーに就任し、新しいドラフト制度の導入などプロ野球界全体の指導的な役割を果たしたほか、平成13年から2年間、大相撲の横綱審議委員会の委員長を務めました。
平成20年には旭日大綬章を受章しています。
読売新聞によりますと渡辺さんは先月末まで定期的に出社し、役員会などに出席していましたが、今月に入って体調を崩し、19日未明に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。98歳でした。
渡辺恒雄さんとプロ野球
渡辺恒雄さんは平成8年にプロ野球・巨人の球団オーナーに就任しました。
12球団のオーナー会議でも中心人物として球界に大きな発言力を持ち、ドラフト制度の改革やフリーエージェントの導入など、球界の制度改革に主導的な役割を果たしました。
20年前の平成16年に近鉄とオリックスが合併し、その後、楽天が誕生した一連の球界再編では、1リーグ制移行に向けた構想の中心となり、2リーグ制の維持を求めた選手会の反発に対して、「たかが選手」などと発言して物議をかもしたこともありました。
そのさなか、巨人がドラフト会議で獲得を目指していた大学生に現金を渡していたことが明らかになり、道義的な責任をとって、巨人のオーナーを辞任しましたが、その後1年で巨人の球団会長として球界に復帰しました。
平成23年には、当時の球団代表が、球団会長には権限がないのにもかかわらず内定していたコーチ人事を覆されたと厳しく批判すると、その後、巨人のすべての役職を解任されるなど球団内での絶大な権力を見せました。
平成26年には巨人の最高顧問に就任し、翌年に発覚した野球賭博問題を受けて、当時のオーナーなどとともに引責辞任しましたが、その後も、球界での存在感は際立ち、巨人の球団運営にも強い影響力を持ち続けました。
一方で、普段はユーモアがあり、報道陣とのやりとりでは冗談を話して記者を笑わせる一面もありました。
ことし3月にはシーズン開幕前に行われる恒例の激励会で車いすに乗って登壇し、阿部慎之助監督をはじめ選手たちを激励していました。
東京大学名誉教授 御厨貴さん「功罪はとても大きい」
日本の政治外交史が専門で、東京大学名誉教授の御厨貴さんは「私が渡辺さんの本を書いてから20年ほどたつがその間もずっと健在だったことはすごい人だと思う。新聞界の権力者として長年にわたってもたらした功罪はとても大きかった」と話しました。
作家 魚住昭さん「メディアの姿勢を変えた」
「渡邉恒雄 メディアと権力」の作者でノンフィクション作家の魚住昭さんは「著書を書く前に3、4回にわけて10時間以上インタビューをしました。取材に対してまともに応じてくれ、私の取材人生で印象深い人です。会った際の印象は人の気をそらさない、茶目っ気もあって、時には笑わせてもくれる、勉強をされている方で話も知的で、魅力的でした」と話しました。
そのうえで「日本の新聞社は自民党に対して批判的で、読売新聞も含めて反自民・反権力の姿勢でしたが、渡辺さんが読売の実権を握ってからは、自民党とタイアップしながら反自民から親自民になりました。そういうメディアのあり方をある意味成功させました。戦後のメディアにとってかなり大きな出来事でメディアの姿勢を変えた、そういう意味を持ったと思います」と話しました。