今の若い人は、ある程度完備した科学社会に生まれている。携帯電話もカーナビも当たり前になった社会である。発展の過程を見ていない彼らは、どういった原理でそれらが機能しているのかを知らない。知らなくても、その恩恵を受けることができる。充電さえしていれば、誰とでもいつでも連絡がつくと信じている。電波がどんなもので、どのような設備によって成り立っているのかを知らない人が多い。十数メートルしか離れていない場所なのに、携帯電話が通じなくなることがあるなんて、考えてもいないだろう。
こういった「科学離れ」については、昔から問題意識はあった。だから、子供たち向けに科学を教育するシステムをいろいろな形で模索してきた。けれども、僕が感じることが一つある。そういう教育をしているのは、科学が好きな人たちだ。だから、口を揃えてこう言う、「科学の楽しさを子供たちに知ってもらいたい」と。この言葉を聞くたびに、「楽しさ」を押しつけている姿勢を感じずにはいられない。読書の楽しみを知ってもらいたい。スポーツの楽しさを感じてもらいたい。ほかの分野でも、こういった姿勢は根強い。しかし、科学の場合は、そんな悠長な問題ではない、と思うのだ。読書やスポーツが嫌いな人は、それをしなくても良いだろう。楽しみは、ほかにいくらでもある。しかし、科学を避けることは、この現代に生きていくうえではほとんど無理なのである。(中略)もはや、好きとか嫌いで片づけられるものではない、ということだ。
(森博嗣『科学的とはどういう意味か』による)