以前、高校の教え子たちと話していて「1」ふと気づいたことがある。疑問に感じることの幅の広さ、疑問の大きさの違いだ。「どうして?」「なぜ?」という問いは、人間にとって、だれもが持ち合わせるごく当たり前の心のはたらきだと思ってい
た。しかし実際には、その広がり、対象範囲が人によってまったく異なるのだ。
(中略)
疑問とは、「興味の現れ」にほかならない。なにごとにも無関心な生徒は、会話もじつに淡白である。他者とのコミュニケーションにも興味がない。興味がないから、疑問も起きてこない。
私はというと、物心ついたときから好奇心旺盛な子どもであった。「このおもちゃの内部はどうなっているんだろう?」そう思ってばらばらに分解しては、元に戻せなくて泣いていたものである。
自分を取り巻く社会で起きるあらゆること、たとえば学校の授業で先生が教えたり、指導する内容にだって「なんで?」と思っていいのだ。会社の上司の指示にも「なんで?」と思っていい。親の躾にも「なんで?」と思っていい。問題は、「なんで?」だけで思考が終わってしまうことだ。「2」それではダメだ。というのは、「なんで?」だけで終わってしまうと、その後に「反抗」「反感」の感情が心に渦巻いてしまうだけだからである。「なんで?」に始まり、そこから「どうしてそうなるの?」「本当にそうなの?」と、自分なりに考えを極めていく作業が大切であり、そこに成長の鍵がある。
(山本博『持続力』による)
物心ついたとき:世の中のことが何となく分かってきたとき
感情が心に渦巻く:ここでは、感情で心が乱れる
考えを極める:ここでは、徹底的に考える