僕らは、自由という言葉にある重さを感じる。自由と勝手とは似て非なるもので、自由を与えられると、その尊さゆえにどう扱っていいかと緊張するのである。そのように教えられたわけではないのだが、その解釈する感性が少なくとも備わっていたということだろう。日常の仕事のことでもいい、ちょっと思い返すと、「1」それが実感できる。
「2」自由におやりくださいと言われると、無邪気に、あるいは無責任に、これは楽だと思えるだろう。
自由におやりくださいの自由は、あなたの思うままお好きな世界を構築して結構ですという、全幅の信頼や神のごとき好意ではないのである。
もっとつき放している。お手並拝見という底意地の悪さもある。だから、言われた側の本心としては、自由にやらせていただけるのですかと、感動のリアクションを示しながら、実は大して期待していないな、要するにあてにされていないなと思ったりするのである。
それもこれも、自由という言葉の持つ重さと、それを使いこなす困難さを知っているからである。だから、僕らは若い時、自由に書いてください、自由に解釈してください、自由に生きてくださいと言われると、捨てられたような戦慄を覚えたものである。自由は善玉、制約は悪玉だと伝えられているが、制約を示された方が人は安心して生きられることころもあるのである。
「中略」
僕は、自由を理解し、自由を享受し、自由を主張するためには、無免許であってはならないと思っている。少なくとも許されることと、許されざることの判別が可能な人だけに交付されるべきなのである。
(阿久悠『清らかな厭世—言葉を失くした日本人へ』による)