現代は、「発明は必要の母」となった時代である。あるものが発明されると、企業はさまざまな余分の機能をあたかも必要不可欠とばかり付加して製品を売り込もうとし、人々はその機能がいかにも前から必要であったかのごとく錯覚して購入するからだ。発明が欲望を刺激し、欲望が人々を消費に走らせ、消費が新たな必要性という幻想を生み出すのである。その結果、本来必要でなかったものにまで飢餓感を募らせ、無限に便利さを追い求めるという悪循環に陥る。このように企業の戦略と人々の欲望が結びついて、ひたすら「幸福」を求めようとする構造が「1」現代という時代を象徴している。ケータイがその典型である。
そんな時代に「幸福」を考えるとすれば、この欲望の連鎖をどこかで断ち切るより仕方がない。いや、発明というような新技術には目を向けず、むしろそれらと縁を切って積極的に時代遅れになるということに「幸福」は求められるのではないだろうか。テレビは置かずにCDでモーツァルトや落語を聞き、パソコンはインターネットに手を出さずワープロ機能だけにする。クルマは持たずに公共交通機関のみを使う。ケータイは家族にしか番号を知らせない。欲望を他者との関係に求めず、自分の内部からの声を汲み上げ、何かを創り出すことのみに時間を使う、そんな生活にこそ「幸福」がありそうな気がする。
むろん、そんな修道僧のような生き方は現代では「2」不可能である。電子メールでは誰とでも簡単につながって対話できる。インターネットで買い物をし、ブログで自分の意見が自由に出せるのは新しいテクノロジーがあってこそである。テレビからの情報は日常会話に欠かせないし、電話での長話も楽しい。クルマがあればいつでも好きな場所に行ける。パソコンもテレビもケータイもクルマもない生活は考えられず、これら文明の利器は私たちを誘引して止まないのだ。「3」そこに「幸福」はないと実は誰もが知っていても、便利さと効率性を棄てきれないのも私たちなのである。
とすると、どこかで妥協することを考えねばならない。断ち切るところと利用するところを使い分けるのである。私のやり方は比較的単純で、余分な機器を持たず、持っても時間を区切るか場所を限るかして欲望を抑制することだ。
(中略)
そのようにして生み出された時間を自分のために使うのだ。それが私の「幸福」への接近法なのである。
(池内了『生きのびるための科学』による)