JLPT N1 – Reading Exercise 75

#302

現代は、「発明は必要の母」となった時代である。あるものが発明されると、企業はさまざまな余分の機能をあたかも必要不可欠とばかり付加して製品を売り込もうとし、人々はその機能がいかにも前から必要であったかのごとく錯覚して購入するからだ。発明が欲望を刺激し、欲望が人々を消費に走らせ、消費が新たな必要性という幻想を生み出すのである。その結果、本来必要でなかったものにまで飢餓感を募らせ、無限に便利さを追い求めるという悪循環に陥る。このように企業の戦略と人々の欲望が結びついて、ひたすら「幸福」を求めようとする構造が「1」現代という時代を象徴している。ケータイがその典型である。

そんな時代に「幸福」を考えるとすれば、この欲望の連鎖をどこかで断ち切るより仕方がない。いや、発明というような新技術には目を向けず、むしろそれらと縁を切って積極的に時代遅れになるということに「幸福」は求められるのではないだろうか。テレビは置かずにCDでモーツァルトや落語を聞き、パソコンはインターネットに手を出さずワープロ機能だけにする。クルマは持たずに公共交通機関のみを使う。ケータイは家族にしか番号を知らせない。欲望を他者との関係に求めず、自分の内部からの声を汲み上げ、何かを創り出すことのみに時間を使う、そんな生活にこそ「幸福」がありそうな気がする。

むろん、そんな修道僧のような生き方は現代では「2」不可能である。電子メールでは誰とでも簡単につながって対話できる。インターネットで買い物をし、ブログで自分の意見が自由に出せるのは新しいテクノロジーがあってこそである。テレビからの情報は日常会話に欠かせないし、電話での長話も楽しい。クルマがあればいつでも好きな場所に行ける。パソコンもテレビもケータイもクルマもない生活は考えられず、これら文明の利器は私たちを誘引して止まないのだ。「3」そこに「幸福」はないと実は誰もが知っていても、便利さと効率性を棄てきれないのも私たちなのである。

とすると、どこかで妥協することを考えねばならない。断ち切るところと利用するところを使い分けるのである。私のやり方は比較的単純で、余分な機器を持たず、持っても時間を区切るか場所を限るかして欲望を抑制することだ。

(中略)

そのようにして生み出された時間を自分のために使うのだ。それが私の「幸福」への接近法なのである。

(池内了『生きのびるための科学』による)

Try It Out!
1
「1」現代という時代とは、どのような時代だと筆者は述べているか。
1. 人々が必要性を感じているものを、企業がすぐに察知し製品化している。
2. 人々の購買欲にこたえるために、企業が必要以上のものを開発している。
3. 企業の多くの発明によって、人々の便利な生活が支えられている。
4. 企業が次々に新製品を売り込むことで、人々の欲望が膨れ上がっている。
2
「2」不可能であるとあるが、なぜか。
1. 人は外部の情報なしでは生きられないものだから。
2. 人は他者とのつながりを棄てきれないものだから。
3. 人は不便で手間のかかる生活に戻れなくなっているから。
4. 人は新しいテクノロジーがよいものだと思い込んでいるから。
3
「3」そことは何を指しているか。
1. 古い機器を棄てられない生活。
2. 便利な機器に囲まれた生活。
3. 新しい機器に頼らない生活。
4. 必要な機器だけを使う生活。
4
筆者は、どのようにして「幸福」を得ようとしているか。
1. 欲望を抑制して、自身が本当に気に入った機器だけを手に入れる。
2. 機器とのかかわりを制限して得られた時間を、自身のために使う。
3. 便利さや効率性を放棄して、自身が本当に必要なものを見極める。
4. ものに対する執着心を棄てて、自身のための時間を生み出す。