人称代名詞われ(私)の複数は
われわれ(私たち)だと通常考えられている。多くの場合それでいいのだし、実際にもそういうふうに使われている。けれども、われわれ
がいつでも必ずわれの複数といえるかとなると、そうとばかりはいえないだろう。自分を含んだ複数の人間をひとまとめにしてわれわれというとき、ことわるまでもなくそのわれわれのなかで自分と他の人々とは、なんらかの意味で親和的な間柄にある。たとえばグル-プ、学校、会社、党派、家、国など、性格や規模こそちがえ、一つの同じ集団に属していて、心の、あるいは利害の上で互いに結びついていることが前提になっているわけだ。しかしこの場合、自分と他の人々とは、それぞれの集団の外部に対しては同一の集団に属するものとして結びつきをもっているにしても、それぞれの集団内部を考えてみれば、「1」自分と他の人々との間柄が対立を含んでいないとはいえない。自分によって近い集団から遠い集団へ、自分を含む小さいな集団から大きな集団へという方向で、一般的には集団内部の自他の対立は大きいが、たとえ小さな身近な集団のなかでも自他の対立はなくなるわけではない。それどころか、ときには近親憎悪と呼ばれるような、近い間柄であることがかえって激しい憎しみを相互に惹き起こすことさえあるのだ。このようなわけで、集団内部の自他の対立を問題にし出すと、「2」われわれということは簡単にはいえなくなる。もっといえば、ありえないことになる。つまり、「___3___」、そこにあるのはつねにただ自己と他者たちだ、ということになるのである。
(中村雄二郎「哲学の現在」による)