JLPT N1 – Reading Exercise 96

#323

私は、一人の作曲家として、色々な機会に、自分の作曲について語ってきた。しかしそれは、私自身が、自分の作曲についてよく知っている、ということを意味するわけではない。私の作曲には、言葉で説明できるような組織的な方法論はない。作曲するときの私は、単に、感覚に頼って、直観的に「これが好い」と納得できる音の連なりを探し続ける。そして、「ここが曲の終わりだ」と感じるところに到ったとき、一つの曲の出来上がりとなる。ただそれだけである。「これが好い」あるいは、「ここが曲の終わりだ」という感覚的な判断の根拠は、説明できない。そして、そのようにして作った曲が何であるのかについても、よく分からないのである。

もっとも、私は、自分の作曲について本当に何も知らないというわけではない。そもそも、どうやって何を作るかということを全く知らずに物を作ることは、不可能である。例えば、もし、ガラスのことも、そして、花瓶というものがどのようなものかも知らなければ、ガラスの花瓶を作ることはできない。同様に、作曲の場合にも、素材である音と、その音の構成の仕方について知らなければ、そしてさらに、音楽というものがどのようなものなのかを知らなければ、曲を作ることなどできない。作曲をするからには、作曲者は、当然、それらについて一応知っている。

(中略)

作曲は、必ず、何らかの伝統における「基本的な」知識を前提としている。だが、その「基本的な」知識をそのまま(大抵の場合、無意識的に)受け容れてその範囲で作曲する「保守的な」作曲家達がいる一方で、前衛主義に代表されるような、新たな音楽の可能性を求める作曲家達は、自らが出発点とした伝統における「基本的な」知識の外に踏み出そうとする。そして、この伝統からの踏み出し――あるいは、「逸脱」と言うべきかもしれない――は、常に、実験的な性質を帯びる。つまり、非伝統的な素材を用いることによって、あるいは、非伝統的な音構成法を試みることによって、伝統に由来する「基本的な」知識が告げる音楽というもののイメージから逸脱した未知のものが産み出される可能性があり、そして、この未知なるものを相変わらず「音楽」と呼ぶとしても、それがどのような意義と価値をもつ音楽なのかは、わからないのである。その意義と価値を判断するためには、そこに生まれてきた音楽そのものを吟味してみるほかはない。

私が、自分自身の作曲について語り得ることは、まさにこのこと、つまり、自らが行った実験的な試みの結果として産み出された音楽についての吟味であり、言い換えれば、自分が行ったこととその結果についての自分自身による解釈なのである。

(近藤譲『〈音楽〉という謎』による)

Try It Out!
1
そのようにして作ったとあるが、どのように作ったのか。
1. 曲全体の出来上がりをイメージしながら作った。
2. 曲の終わりを意識して納得できる音を探しながら作った。
3. 美しいとされている音の連なりを組み合わせて作った。
4. 音の連なりを理屈ではなく感覚的に選んで作った。
2
筆者は、ガラスの花瓶の例を挙げて何を言おうとしているのか。
1. 音楽の素材として適している音があること
2. 作曲家はどのような仕事をしなければならないかということ
3. 作曲家は何の知識もなく曲を作ることはできないこと
4. 自身の作曲について知らなければいい曲はできないこと
3
新たな音楽の可能性を求める作曲家達の音楽とは、どのようなものか。
1. 伝統的なイメージから離れた実験的な音楽
2. 「基本的な」知識を知らずに作った未知の音楽
3. 「基本的な」知識を元にして作った新しい音楽
4. 非伝統的だが「保守的な」イメージを失わない音楽
4
筆者によると、自分自身の作曲について語れることはどのようなことか。
1. 自身の曲の意義と価値
2. 自身の方法論についての解釈
3. 自身の試みと、曲についての解釈
4. 自身の作曲過程と、実験的音楽の可能性